友達の輪437号(2013年6月23日発行)
中田商会(株)代表取締役 中田 博三さん 昌子さんご夫妻へ
権現堂では紫陽花まつり、久喜市菖蒲ではあやめとラベンダーまつり、それぞれ終盤を迎える季節です。暑い夏がもうそこまでやってきていますね。さて、本日の友達の輪には山崎正子さんからご紹介いただいた中田博三さんご夫妻に登場いただきます。
【本紙】 こんにちは。山崎さんからご紹介いただきました。創業者と伺いましたが、たくさんの事業をなさっていらっしゃるようですが、創業のきっかけなどお話しいただけますか?
【中田(博)】(敬称略)敬称略 私は農家の長男として昭和18年生まれました。農業も今と違って機械ではなく手作業でやっている時代で長男は跡を継ぐというのが当たり前でした。私も後を継ぐものと考え、杉戸農業高校に入学しました。しかし、進路を考えた時、両親も健在で若かったですし、忙しい時期も田植えと収穫時期だけでしたから、車とか機械いじりが好きでしたので、卒業後、西武バスに就職したのです。バス会社というのは、通常の製造業と違って、朝早くに行けば昼過ぎには終わるんです。午前と午後や、夕方に行って夜中までといった勤務体制でしたので、家の仕事も手伝うことができました。昔は土日休みということもありませんでしたし、毎日が仕事でした。だから、私にとっては時間と労力の配分がとても良かったのだと思います。
【本紙】 バス会社に勤めながら農業もされたのですか?
一生懸命に働く
【中田(博)】 朝4時にオートバイで家を出て大宮まで通い、仕事から戻ると農家の仕事をしました。田植えと稲刈り時期以外は夜9時、10時くらいまで働いていました。バスの運転手をやっていたのですが、入社3年で昇格試験に合格し、大型二種免許も21歳で取得し、若かったのですが帽子や制服の胸に付く階級章が誇りでもありました。まだ労働組合も無く働けば働くだけお金がもらえた時代です。働いて働いて赤いコロナのハードトップを買いました。車を買った頃に女房とのお見合いがありました。今はちょっと働けば車を買えますけど、当時は給料が1万7千円くらいで、買った車が80万円でした。銀行でローンを組んで払いきるのが先決でとにかく一生懸命働きました。仕事そのものが楽しくてしょうがなかったんですね。しかし、過労がたたって体を壊してしまったのです。
【本紙】 それでどうされたのですか?
修理工場から
【中田奥様(昌)】 主人はコンバインやトラクターのエンジンを分解、洗浄して組み立てたりするほど車が好きな人で、それで、軽から大型まで扱う自動車修理工場を始めました。整備などの専門学校に行っていないので、整備士を採用して、中田商会という修理工場が最初でした。
【中田(博)】 その後、幸手に工業団地ができる事を聞き、駅から工業団地の輸送が必要になると感じました。西武バスでは管理者補助もやっていましたのでこの経験もありバス事業に参入したのです。苦しい思いもしましたが、現在のバス会社を維持していけるのは西武でのノウハウと感謝しています。 中田(昌)主人はすぐ行動に移す人で、工業団地にどんな会社が来るかを調べて、訪問して送迎でバスを使ってもらえるように営業をしました。最初のバスは幸手駅から工業団地まで出しました。当時は営業ナンバーを取るのが大変でした。昔は免許で今は許可ですが、その違いは大きいですね。許可なら、行政書士が書類を作って、それを提出しての書類審査です。営業ナンバーに関しては主人と息子と私で基礎から全て勉強しました。
【本紙】 修理・整備工場や観光バス、旅行会社(JTB提携店)の事業があるんですね。
出会い
【中田(博)】 当社の車は三菱が多いのですが、営業所が春日部にあり仕事がらよく行きました。営業所の後ろにイトーヨーカドーの体育館があって、バレーボールチームが練習をしていました。所長に会いに行くと、所長はバレー好きでよく練習を観に行ってたのです。それで、私も体育館に行って、そこで所長と話をするようになるわけです。そういうことをやっているうちに、バレーボールに詳しくなってくるし、監督やコーチとも会うようになってきました。その縁でイトーヨーカドーさんからバレーボールチームのバス運行の依頼を受けたんです。当社はまだ経験も浅く小さな会社でしたので、イトーヨーカードさんのような大企業から頼まれたとあって、緊張で足が震えました。通常、AからBという決められた路線で走るのが送迎バスなんですが、イトーヨーカドーさんの場合は試合が行われる場所、つまり日本全国ですから、自家用バスでないとダメなんです。そこで、レンタカー会社として埼玉トラベルを興して、レンタカーとして車を貸して、イトーヨーカドーさんは中田商会にバスの運行管理の委託をすることになったんです。20年間くらい運行して全国の試合に行きました。おかげさまで、この仕事で色んなところからの信用を得られるようになったと思います。
【中田(昌)】 チーム成績もリーグ優勝や黒鷲旗優勝とどんどん強くなっていきました。美人揃いのチームでした。そして、私たちを下請けという形ではなく、チームの仲間として迎え入れてくれました。とても感謝しています。
【本紙】 震災時翌日に支援もされたそうですね。
震災翌日より支援バス
【中田(博)】 一昨年の震災翌日にイトーヨーカドーさんから電話があったんです。聞けば被災地のイトーヨーカドーが避難所になっていて、関東から支援物資を送りたいのだが、付き合いのあるバス会社からいい返事がいただけない、と。それを聞いて「なら私が全部やります」と返事をしました。女房がすぐに幸手警察に行って、緊急自動車の許可を取ってバスを用意しました。四谷の本社に全国からイトーヨーカドーの若い人達が集まって、彼らを乗せて被災地まで行きました。もちろん、なにがあるかわからないですから運転手はツーマンです。近所の友人も協力してくれて、夜中までおにぎりを作ってくれました。燃料もないので、付き合いのある運送会社に協力してもらい充分な量を確保出来ました。地震のあと、よく絆と言われますが、誰もが当たり前に思っている事が忘れがちなんだなと強く感じました。
【本紙】 ほんとですね。では、お友達をご紹介ください。
【中田(博)】 おにぎりをたくさん作ったり、いつも協力してくれる新井康之さんご夫妻を紹介します。環境保全や野菜作りに熱心な方です。
【本紙】 ありがとうございました。益々のご発展祈念いたします。(中田さんのところで主催するバス旅行は楽しさいっぱいのようです。帰路で幸手が近づくと「次はいつ?」という声があがりバスの中で次の旅行が決まってしまうほどだそうです。人と人とのつながりを大事にされ、いつでも楽しさを提供しているお二人と感じました。著名人とも縁が深く重量挙げの銀メダリストの三宅さん親子とも30年来のお付き合いで、帰国後すぐに自宅にメダルを見せに来てくれたそうです。絆って大事にしたいですね。