友達の輪499号(2015年1月24日発行)
幸手中学校教諭 白田 英雄さんへ
暦の上で一番寒いとされている大寒も過ぎ、まもなく節分そして立春ですね。あわただしく過ごした年末年始もついこの間のように感じられます。さて、本日の友達の輪は高柳歯科医院の高柳篤史さんからご紹介いただいた白田英雄さんです。白田さんは幸手中学校の教師で、1998年2月には友達の輪N055でお父様にも取材させていただき、親子にわたる友達の輪となります。
【本紙】 先生になられて何年ですか。「ソフトテニスで有名な先生」と伺いましたが?
【白田】(敬称略) 教師歴は33年目になります。ずっと中学の教師で専攻は保健体育です。最初の2年間が久喜東中学校、その後分離して太東中学校に10年いました。次に鷲宮西中学校に7年間、杉戸の広島中学校に10年間です。そして、幸手中学校で4年目が終わろうとしています。ソフトテニスは幸手中学校の生徒だった頃からやっています。中学から始めたという訳ではなく、父もソフトテニスをやっていましたのでその影響がありました。当時はテニスをやっていたというよりも、テニスで遊んでいたという感じでした。幸手中学校で3年間ソフトテニスをやり、國學院栃木高校に進学しましたが、途中で退学して春日部高校を受験し直し、春日部高校でもテニスを3年間やっていました。
【本紙】 高校を辞めて受け直したということですが?
まさかからの挑戦
【白田】 中学生の時、進路希望は春日部高校が第一志望でした。春日部高校でテニスがやりたいという気持ちが強かったのです。しかし、落ちてしまって國學院栃木に進学しました。自分ではまさか落ちるとは思っていなくて、絶対に春日部高校に行くつもりでした。中学で生徒会長をやっていて、テニスで県大会に行ったりしていたので、鼻っ柱も高かったので余計だったのでしょうね。受験失敗の原因は英語のヒアリングでした。受験が終わってこれはもう駄目だというのが分かっていましたので、家に帰ってから親にもう一度受けさせてくれと言いました。最終的に行く学校が國學院栃木になったわけですけど、特進のようなところで学校側も力を入れてくれているところなので、そういった点において問題はまったくないのです。ただ、自分の心の方が納得いかないのです。悔しいから勉強もしたのですけど、テニス部もないし遠いということもあって、なかなか身が入らなかったのです。そんな風にずっと下を向いている日が続いた頃に、父から「お前はどうしたいのだ?」と聞かれたのです。そこで、もう一度春日部高校を受けたいと答えました。そして、「いまの高校で一番になったら好きなことをやっていい」と言ってくれたのです。その頃、成績は3番目くらいだったので、頑張って勉強して中間テストで1番を取りました。成績表を両親に見せて、「約束通り1番になったので、これからは家で勉強します」と次の日から学校に行かず、一心不乱に勉強しました。そして、受験を迎え合格発表は自分一人で見に行きました。自分の番号を見たときは「あっ!あった」と最高でしたね。両親も気になっていたようで、合格発表を見に行ったようでした。その日は星が綺麗な夜で、一生忘れられませんね。
【本紙】 思いを貫いたのですね。そして、先生になってテニスでも全国大会で準優勝を二度されたそうですね?
日本一を目指し
【白田】 先生になろうと思ったのは親を見ていたからだと思います。父は数学教師で母は音楽教師という家庭にいたというのもあるでしょうし、幸手中学の教師だった父を悪く言う人もいません。父がどういう授業をしてどういう先生だったのか、子ども心にいやな先生とか、自分が先生だったらこういう先生になりたい、というのは持っていたのかもしれません。親がどういう人だったのか知りたくて、それを見ていたらいつの間にか自分がその世界に入ってしまったという感じですね。そして、教師になってテニスの指導も続けました。鷲宮西中時代、ソフトテニス部にとてもいい子たちがいて時間をかけて、日本一を目指そうと子どもたちと頑張っていました。ところが、8年目に広島中に異動が決まり、子どもたちからは、「日本一になれないから、広島中に行くのですね」と言われたのです。杉戸地区は以前からソフトテニスが好きな方たちが多くて、ジュニアたちも強く杉戸のスポーツ少年団のソフトテニスは全国的に有名でした。平成16年に国体がありソフトテニスのミニ国体も杉戸で開かれたほどです。そこで、当時、県の中学校体育連盟ソフトテニス専門部の副委員長をやっていた自分が呼ばれたのです。広島中の子どもたちは小学校時代からの実力を考えれば、きちんと指導すればすぐに伸びる子ばかりでした。広島中に行くなり、県で個人1位、2位、団体で優勝という結果がすぐに出ました。1位になれば地区から2校出られるので広島中は勝たないといけないという使命感もありました。おかげさまで鷲宮西中の教え子たちも県に出られましたから良かったかなと思います。その後、広島中でも「日本一を取るぞ」という気持ちで指導しました。広島中時代には全国大会で準優勝を2回しました。
【本紙】 指導のコツなどあるのですか?
遊び感覚から
【白田】 テニスはすぐに上手くならないのです。頑張って、頑張って、繰り返し練習して、ようやく身についてくるのです。体育でもソフトテニスをやらせるのですが難しいようです。他の球技と違って、シングルもしくはダブルスですから、「勝った・負けた」という実感が選手に直接くるというメンタルな部分もあると思います。ですから、子ども達には「先生や自分に騙されなさい」と声をかけています。「先生の言うことは魔法の言葉みたいなものだよ」という感じで信じれば負けないとかですね。子ども達に送る色紙にも、よく「全力は美なり」と書き「自分は夢を追う人」と足していました。私が父の影響もあって遊び感覚でテニスをはじめたように、楽しむ事も大事ですね。実は妻も幸手中学でテニス部の顧問をやっていました。ですから、夫婦で関東大会に行ったり全国大会に行ったりしていました。息子と娘がいますが、二人ともソフトテニスをやっています。息子は小学校の頃から杉戸ジュニアでテニスをやっていたというのもあり杉戸中3年ですが、この間の全国大会団体戦で3位になりました。高校3年の娘も群馬の県大高崎でキャプテンをやっていて群馬のチャンピオンになり、全国選抜にも出て、奈良県でインターハイにも出ました。小さい頃から家族共に遊び感覚で始めた事がつながっているのでしょうね。
【本紙】 パワフルですが、健康の秘訣などは?
【白田】 好きなことを一生懸命にやるということでしょうか。いま57歳ですけど、部活で子どもらとテニスをやりますし、体育の授業でも動きますよ。学校を良くするというわけではないですけど、先生が元気でないと学校はよくならないと思っています。学校に来るのが楽しい、と思っている先生が多ければ多いほど学校はよくなります。
【本紙】 そうですね。では、お友達をご紹介ください。
【白田】 「風ある林整骨院」の院長の渡邉一宏さんを紹介します。
【本紙】 ありがとうございました。部活も学校も楽しい素敵な学校作りにさらなるご活躍を祈念します。(白田さんはご自分の名字の「白田」をテニスコートとラケットに見立ててテニスに縁が深いと自己紹介されるそうです。そして、信じたものに向かって進む、とてもパワーあふれる先生の印象をもちました。ソフトテニス部の活躍が期待されますね。)