タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪526号(2017年5月21日発行) 
幸手消防署元署長 菊地 一男さんへ

梅雨入りも間近に控え食品管理や体調管理に気を使う季節になりました。また、今年は山火事なども多いようですが、火の元には充分注意しましょう。さて、本日の友達の輪は小林一郎さんにご紹介いただいた菊地一男さんに登場いただきます。

【本紙】 幸手消防署で署長を務められていたようですね。

【菊地】(敬称略) 消防署には24歳のとき入署し、52歳から60歳定年まで署長を務めさせていただきました。当時、私の実家は自営業で両親はお店をやっていました。私は高校を卒業して都内に就職しましたが、ある時、父の具合が悪くなってしまい、後を継ぐために戻ってきたのです。しかし、時代の流れもあり小売店は駄目だなと感じていました。それで、消防署に口を聞いてくれた方がいて、消防のお世話になったのです。今ではとても考えられないことですが、面接の時に「二束の草鞋でいい」と言われたのです。消防署は1日置きの勤務でしたから、24時間勤務して、その日の朝に帰ってくると、翌日の朝までは休みです。その時間に家業を手伝いながら、という感じでした。当時はそういう時代だったのですね。(笑)

【本紙】 消防署ではお仕事柄ご苦労もあったのではないですか?

大震災と大火災友達の輪写真

【菊地】 もちろん、色々とありました。阪神・淡路大震災の時には私と部下とで自主研修という形で救援にも行きました。他人事ではなかったですから、自分の目で現場を見ないといけないと思ったのです。交通の問題もありました。大阪で、50ccのバイクを2台用意してもらい、倒壊した阪神高速道路の下を南へ。西宮から先へ行けば行くほど被害状況はどんどんひどくなっていきました。初日は神戸の三宮まで行き、2日目は芦屋に行けたら行ってみてくれ、と頼まれていたので、なんとかたどり着いたのですが、崩壊した家屋の玄関に「誰々の葬式は終わりました」というお知らせ板を見てショックを受けました。他にも色々と回りましたが、あまりにひどい惨状でカメラのシャッターも押せないくらいでした。しかし、地震はどこにでも起きるものですから、この教訓を地元での消防活動に活かさなければと思いました。私の消防経験では一番大きな火災は平成11年の神扇の倉庫火災です。幸いにも死亡者も怪我人も出ませんでしたが、スプレー缶が何百万本も破裂して収拾がつくのに2日間かかりました。その日、私は休みだったのですが、すぐに消防署に出向いて2階から見たら明らかに異常な煙だったので空いている車ですぐに現場に向かいました。火力も強く防火服を着ていても肌が焼けるので、お互いに水をかけあって冷やしました。それでも熱くて汗をかき脱水症状になってしまうので応援に来る仲間にスポーツドリンクや塩を持ってくるように頼んだほどです。それでも、肌の様子が変で、あとで気がついたのですが、かけ合っていた水は、田んぼや用水路の水で、そこには火災現場にあった殺虫剤などが溶け出していたのです。それが原因だということに気がついて、消火栓の水以外は放水を禁止にしたのです。さらに、ポンプ車のエンジンは動かしていますから燃料が尽きてしまい、各ガソリンスタンドから優先的に燃料を回してもらったりしました。

【本紙】 大火災でしたね。消防の組織改革にもご尽力いただいたようですが。

幸手消防の歩み

【菊地】 昭和の終わりごろに「幸手消防の歩み」という本を上司命令で取りかかったのですが、広報幸手や消防団の偉い人たちを訪ねて、少しずつ少しずつ作っていきました。私自身日記を40年以上書き続けており、文章を書いたりする事が好きだったこともありほとんど一人で作りました。全部で1000部作って関係者に配ったのですが、好評をいただき新聞にも載せていただきました。そんな歴史を知った立場でしたが、私が消防にいた時代の後半は消防規模が縮小する方向でした。幸手は100人に満たないのに、東と西に分署があって、3箇所もあったのです。そうすると、負担金が多くなってしまうので、東分署管内の市民の方には申し訳ないのだけど、そこを私の時代で閉鎖したのです。それと、当時は消防団が21箇所ありました。一番全盛で700人くらいいました。21台の消防車両の維持費もかかってしまいますので、消防団の方には申し訳ないと思いながら、徐々に減らしていって最終的に7つにしました。減らすというのは増やすより大変でしたね。市民にとっても減らしていいものかという議論が出ますから。それでも、何年か先には今のような消防規模になるのは想像できましたから、やらないといけなかったことでした。日記にもいろいろ記録されていますが日記は消防学校がきっかけです。消防に入ると当時は3か月間消防学校で基礎を学び、学生日誌を書かされるのです。記録をつけるのは悪いことでもありませんし、それがずっと習慣になって今に至るという感じですね。当時の日誌も全て保管しています。また、消防署時代の30代から体力維持に剣道を始めました。柔道は経験ありますが剣道は初めてでしたので袴の裏表から教わりました。中学生達と一緒に級を受けていき、初段から段階を踏み今も続けています。消防時代に消防署員の大会があったのですが中学から剣道をやっていた人たちと3人の団体戦に出ましたら初参加で優勝してしまいました。今は週3回武道館で子供たちに教えています。教え子が教員になったのですが、その子が教員の大会で優勝して、全国大会に行ったこともあって、教えた方としてはとても嬉しいですね。

【本紙】 夏祭りにもずいぶん関わっていたそうですね。

夏祭り復活に燃え

友達の輪写真

【菊地】 今でこそ毎年やっていますが、私たちの時は十年くらい祭りが無かった時代がありました。それをなんとかしたいと思った若い連中が警察署へ嘆願にも行きました。それが功を奏して祭りが再開されるようになったのです。当時は今のように市から補助もなくすべて手弁当で、ただただ、祭りを復活させたい一心でした。国道4号線から向こう側には渡れなかったのですが、私たちの祭りを東5丁目でもやって欲しいと、警察から許可をもらいそちらでもやるようにもなりました。皆さんとても喜び私達も嬉しかったですね。私も祭り好きなので、先頭に立ってやっていましたね。ポスターにも私が写っています。40年以上も前のことですが消防をやって、家業をやって、祭りをやってという感じでした。今は若いものに任せて引退しました。

【本紙】 モデルのようなポスターですね。では、お友達をご紹介ください。

【菊地】 同級生で美容室を経営されている村野秀子さんをご紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。消防のお仕事を永くされてきたこともあってとても元気な方でした。火災や救急で尽力いただく消防員の姿には感謝の言葉を贈りたいと思います。