タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪590号(2019年9月8日発行) 
池田屋酒店 池田孔三さんへ

【本紙】 こちらのお店の創業はいつになりますか?

【池田】(敬称略) 昭和14年くらいだったと思います。今はお酒を扱っていますが、当時は駄菓子屋でした。終戦の頃にはもうお酒を扱っていたと思いますね。商売だけでなく、他の方に店舗を貸す、ということもやっていました。このあたりはお店がいっぱいあったんです。当時は駅前はお花見客で随分と賑わっていましたね。うちのお店で誰もがサイダーを買っていったものですよ。それを持って、みんな土手の方まで歩いていくんです。

【池田(奥様)】(敬称略) 当時は屋台を出していましたよ。今は駅前での屋台も見なくなってしまいましたね。自動車が完全に普及して、誰もが車で来てしまうんですよ。あれから考えると、この通りも随分と変わりましたね。お店がずらっと軒を連ねて、非常に活気のあった時代もありました。

【池田】(敬称略) いまでは駅前も数えるほどしかお店はありませんが、当時は食堂があって、その隣に不動産業のようなお店が、あと、材木置き場もありましたよ。タクシー会社も近くにあって、戦争が始まってしまい、ガソリンが使えなくなってしまったので、人力タクシーに切り替えた、という話もあります。

【池田(奥様)】(敬称略) お店の近所も、色々なお店がありました。新聞屋さんや、旅館もありました。うちの隣は植木屋さんでしたね。ほかにもいろいろと。

【池田】(敬称略) この場所は別のお店が蚕をやっていたんです。立地があまり良くなかったみたいで、うちと場所を交換したんですよ。

【本紙】 お店がたくさん並び、ほんとうに賑わっていたのですね。昔は近隣の街の方が幸手に買い物に来ていたと聞いたことがあります。

【池田】 この通りは問屋がありましたから、みんな買いに来ていたんですよ。ところが、時が進むに連れて、幸手まで買い付けに来なくなってしまったんです。終戦後を境に段々と寂しくなっていったように思います。

【池田(奥様)】(敬称略) お花見の時期は今以上の賑わいでしたよ。駅前には芸人さんが来たりもしていました。ただ、酔客も非常に多く、マナーも悪かったため、子供だった私にはちょっとした恐怖でもありました。当時から思えば、随分と様変わりがしましたね。駅通りにしても、もうちょっと商店が並んでくれると変わってくるのではないかとも思います。並んでいるのではなく、飛び飛びになってしまっているんです。

東京で苦労した経験友達の輪写真

【池田(奥様)】(敬称略) 東京に3年くらい行っていた時期があったんですよ。東京では、最初は板橋の親戚が助けてくれたんですが、あまり頼るのも悪いと思って、千住の方に引っ越したんです。その引越し先のアパートが三畳一間だったんですよ。洗濯は共同で、茶箪笥ひとつを部屋に置けば、もう他にもなにも置けない状態で、よくも生活出来ていたものだな、と思ってしまいますね。

【池田】 住まいは千住で仕事先は上野でした。当時は都電が通っていましたので、それで通っていましたね。当時の家賃は一畳1000円というものでした。なので、私達が住んでいたところは当時の物価で3000円ということになります。

【本紙】 上野ではどのようなお仕事をしていたんですか?

【池田】 運送屋をやっていました。アメ横などを車で集荷に走っていましたね。実家に戻った際は、駄菓子や玩具を扱っていましたから、上野で働いた経験は非常に活きましたよ。上野や御徒町まで仕入れに来たりもしていました。運転免許を持っていた、というのが非常に大きかったと思います。

【池田(奥様)】(敬称略) 今だから言えることかもしれませんが、あの苦労があったからこそ今があるのかもしれませんね。

【本紙】 苦労してきた経験があったからこそ、戦後の商売を支えてきたのですね。

【池田】 色んな人と喧嘩しながら、お店やって、町を作っていって、今の形になってきているんです。消防団や、色々な会にも参加していて。それを知っているだけに尚更に寂しさが募りますね。

【池田(奥様)】(敬称略) 大変なこともありましたけど、体が資本ですし、健康でいられたからこそ、ここまでやってこれたのだと思います。

【本紙】 お仕事、そして街のこととお忙しかったようですが、当時はお休みの日などはどのように過ごされていましたか?

新婚旅行は子育てを卒業してから友達の輪写真

【池田(奥様)】(敬称略) 家族旅行は出来ていなかったんですよ。行っていた旅行というのは組合のばかりです。

【池田】 組合の集まりもそうですし、それと消防は20年くらいやっていましたね。消防は大変でしたね。夜中にサイレンが鳴るとすぐに準備して送り出していました。

【本紙】 それだけお忙しいと、ご家族から何か不満など出ませんでしたか?

【池田(奥様)】(敬称略) 親が忙しいからつまらない、親子でのんびりしたい、というようなことは言っていましたね。二人とも遅くまで仕事をしているから、子供と食事を一緒に食べる事も出来なかったんですよ。可哀想なことをしてしまったな、と思っています。主人と二人で行った旅行ですと、熱海に行ったことがありましたね。息子が結婚して、子育てから卒業出来たんだから、旅行へ行って来い、と勧められたんです。それで初めて旅行に行ったので、結婚後の新婚旅行が50歳くらいの頃だったと思いますね。

【池田】 昔は休みはまったくなかったですね。休みがない、というより休めなかった、という方が正しいですね。午前中に注文を取りに行って、午後にその注文通りに配達していくという繰り返しですよ。特に仕事柄、正月は忙しかったですね。 お酒も今と違って量り売りですからね。重いものばかりを扱っていましたから、よく体を壊さなかったと思いますね。今はもうビールケースは妻と二人でようやく持てるという感じですよ。

【本紙】 休めるようになったのは、子育てが落ち着いてからだったのですね。(取材時に拝見させてもらった)お写真をみると、最近は様々な趣味の活動をされているようですね。

【池田】 私は囲碁をやっていますね。77歳の頃からなので、まだ最近と言えば最近ですね。昔に少しやったことはあるんですけどね。囲碁というより、縁台将棋というものでした。昔はブームもありましたから、ボウリングもやっていましたよ。夜10時に仕事が終わって、それからボウリング場に行っていました。釣りも好きでやっていましたよ。通年でヘラ釣りをやっていましたし、夏場はヤマベ釣りですね。

【池田(奥様)】(敬称略) 私は習字をやっていますよ。太極拳もやっていたことがありました。他にフラダンスなどもやっていました。今まで忙しかったから、なにかをやっていないと駄目な性分なんでしょうね。

【本紙】 年齢を感じさせない、活動的なお二人ですね。本日はありがとうございました。では、お友達をご紹介ください。

【池田】 駅前で歴史に詳しい久保田修さんをご紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。

池田屋酒店
幸手市中1-2-10
TEL:0480-42-0279