タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪589号(2020年1月19日発行) 
久喜キリスト教会(栗原)牧師 田中 綏子(やすこ)さんへ

【本紙】 牧師さんになる前は海外生活も長かったようですね?

【田中】(敬称略) そうですね。話はさかのぼりますが、私は5人兄弟の末っ子で、「本当のものはなんだろう?日本だけではなく、世界の人と話を出来るようになりたい」と思っていました。それで、好きな英語を一生懸命に勉強してアメリカに留学したいと思っていたのです。今年は東京オリンピックが開催されますが、留学したのは私が短大生の20歳の1964年東京オリンピックの年でした。

【本紙】 当時は留学も珍しかったでしょうね。大学などはどのように探したのですか?

落とした本から友達の輪写真

【田中】 私がお世話になっていた英語の先生と、廊下ですれ違った拍子に持っていた英語の経済学の本を落としてしまった事がありました。床に落ちた本が偶然開いたページには、私の字で翻訳がびっしりと書き込まれていて、それを見た先生が、「あなたはどうしたいの?」と聞かれたのです。それで「アメリカに行くために、アメリカ大使館に行ってアメリカの大学50校へ手紙を書きましたが、奨学金は全て断られてしまった」という話をしたのです。「あらそう、じゃうちの主人に会って見なさい」と言われたのです。先生のご主人が国際基督教大学の副学長だったのです。お会いして話をすると大学に推薦状を書いてくれたのです。そして先方の大学から、五つの項目の中からひとつを選んで、それをテーマに論文を書きなさいという内容の手紙が届きました。私は農村地に学生を派遣して、農業の手伝いや食事の手伝い、子供の面倒を見る、という福祉サービスに参加していましたので、その体験を論文にして提出しました。連絡もなく、オリンピック関係の仕事でも始めようかと思っていた6月に、大学から奨学金授与と授業料が上がれば奨学金も上がるという旨の手紙が届いたのです。9月に始まるので、8月に横浜から船で11日間、サンフランシスコに着き、さらに汽車で3日間かけてシカゴまで行き、そこからオハイオ州のライマというところまで行きました。そこでは大学の副学長が迎えに来てくれていました。

【本紙】 アメリカでの留学生活はどのようなものでしたか?

姉妹二人旅

【田中】 アメリカはイタリア、ドイツ、イギリス系と実に多様な人々が住んでいるんだなと改めて思うようになりました。そして、そんな人たちの国も見てみたいと思いキャンパス内でアルバイトをし、貯金を始めました。ドイツでは友達がいましたので、案内を予定してもらい、その後は船でジブラルタル、南アフリカのケープタウン、インド、香港を経由し12月16日に日本に帰る予定を立てたのですが、友達が男性という事で両親から猛反対を受け、旅を止めさせるべく姉が送り込まれ、計画はおじゃんになってしまいました。姉はアメリカの色々なところを見たいと言うので、二人でアメリカ各地を回りました。また、姉の夫の弟がワシントン州にいたので、彼を頼って国立公園を回り、ディズニーランド、サンフランシスコを見物し、シアトルの空港からハワイ経由で晴れて東京に戻ってきたのです。わたしの貯金の半分はここで消えました。

【本紙】 まるで、今で言う卒業旅行ですね。日本に帰ってこられてからはどうしたのですか?

ドラマチック

【田中】 帰国した私は日本でどう進んだらいいのか、深刻に悩んでいました。秋が深まった頃に弟の彼が来日し、結婚のプロポーズをしたのです。その時、私はユニバーシアードの通訳をしたり、テレビなどにも出て、ディレクターから「結婚なんてしないでね」と言われていて結婚する気はありませんでした。彼との時間は大変リラックスでき、ありのままの自分でいることができました。帰りに家まで送ってくれて、なんの成果もなく彼とは別れたのです。そうして家に入って、変わらぬお茶の間の風景を見た時、ダメだ!私は衝動的に駅まで自転車で走っていきました。向かった駅に彼がいたら結婚、いなかったら結婚ナシと思ったのです。するとなんとうなだれて、彼が駅に立っているではありませんか。その姿を見て「私、決めたから!」と叫んだのです。プロポーズへの返事として、それで十分でした。彼が帰米する前に、1月末に結婚し一緒に太平洋を渡りました。

【本紙】 教会とはどのように縁があったのですか?

求めよ、さらば、与えられん友達の輪写真

【田中】 私は、自分はなんの為に生まれたのか?人間はなにを目的として生きるのか?私はこの世でなにをすればいいのか?と昔から自問自答してきました。テレビでセサミストリートの仕事や、ベトナム、アフリカへの取材等、とても刺激があり面白いのに、自分の使命とは思えないのです。家庭を望む彼には、頭をさげて離婚となりました。その後、絵の勉強をして、ニューメキシコで絵描きとして活動したり、カリフォルニアで陶芸を学んだり、どれもこれも楽しかったのですが、やっぱりなにか違うのです。神様のくださる充実感はこういう寂しさや空しさが顔を出すようなものではないはずだ。という確信が、どうしても自分の中から消えませんでした。聖書に「求めよ、さらば、与えられん」という聖句があります。これは「求めなさい、そうすれば与えられるであろう」という意味で、聖書が本当というなら私はそれに賭けようと思ったのです。でも、自問自答しても解らない事ばかりです。そんな時「僕は君の神様じゃないよ」と親しい友に言われて、「ああ、私は恋愛などに何でも求めていたんだ」と気がつきました。そんなある日、ジャパニーズクリスチャンチャーチと書かれた標識がふっと目に入り立ち寄ったのです。礼拝の後、雑談していると、突然感情が爆発したかのように号泣してしまったのです。それまでの人生が走馬灯のように現れ、自分の真剣だけど勝手な人生を神さまは忍耐をもって守ってくださったのだ、と実感し神さまの忍耐に驚いたのです。牧師先生も驚き祈ってくれました。その時60歳。それまでの不安や、独り夜の海を泳ぐような怖さ、孤独がふっと消え、初めて心の奥からの安堵を感じたのです。その後は気持ちよく努力なしで、毎週その教会に通いました。神様の事を正しく解りたかったのです。3年後に献身。日本の東京聖書学院に入り、2011年の3月に卒業し、地震が起きる3日前に福島の教会に任命されたのです。そうしてあの震災が起きました。教団も困惑。福島からは新卒では無理でしょう!という打診。でも、祈り、現地に行く事を決めました。そこから、2016年4月久喜教会に着任したのです。私は現在76歳。心の奥からすっきりとどうしようもない喜びと共に、神さまにお仕えさせていただいています。

【本紙】 変化のある人生ですね。ではお友達をご紹介ください。

【田中】 地元のお友達はまだ難しいので、編集部にお任せいたします。

【本紙】 では、新春でもありますので、久喜市長に繋ぎたいと思います。これからもお元気でご活躍下さい。