友達の輪591号(2020年2月16日発行)
幸手市長 木村 純夫さんへ
【本紙】 学生時代は柔道一直線だったそうですね。
【木村】(敬称略) そうですね。中・高・大と柔道をやっていました。おっしゃる通り、私の人生は柔道と共にあったように感じます。それぞれの柔道部ではキャプテンを務め、高校も大学も柔道部に入った初年にレギュラーに選ばれ、団体戦では先鋒や中堅を務めました。広島県でのインターハイの埼玉県予選では、中量級(当時70キロ)で優勝しました。国体は福井国体に出場しました。春日部高校時代の柔道恩師の松下先生には「柔道の疲れは勉強で取れ。勉強の疲れは柔道で取れ」と、一見矛盾したような指導を受けました。私は馬鹿正直に受け取り、柔道を一生懸命やって、帰れば夜遅くまで勉強をしていました。国体は10月でしたから、高校3年の10月一杯まで柔道をやっていました。
【本紙】 恩師は文武両道を薦めたのですね。
高齢者福祉
【木村】 高校卒業後、立教大学に入りました。通学時間がかかるので、先輩から食住が提供される東京都目黒区の白寿荘という老人ホームを紹介されたのです。老人ホームとは言いますが、病院もあれば母子寮などもある大きな総合施設です。そこにボランティアとして住み込み、老人ホームの担当になり、4年間過ごしました。職員が休みの日には、代わりに職員室に詰めて、お年寄りの食事の世話や相手をしていました。冬になると、悲しいことですが、トイレで亡くなってしまう方やお風呂場で亡くなってしまう方も出ます。そういった方々の体を綺麗に拭いて、お棺に入れるという事もやっていました。ボランティアなので給料は出ませんが、夏冬に職員が賞与を貰う際、5千円をいただきました。これからの高齢社会に向け、この4年間の経験は活かせると思います。大学の福祉学科卒業で、既にそこで働いていた今の妻とは、このボランティアで知り合い学生結婚したのです。大学を卒業して、就職する直前に大宮清水園で結婚式を挙げました。私は自転車が大好きで東北一周をした事があります。それもあって、新婚旅行も清水園から、銚子、鹿島灘、袋田の滝、日光、前橋、東京と自転車で10日間ほど走りました。奇抜な新婚旅行でしたが、妻にすれば付き合わされたようなもので、後で我慢していたと聞かされました。(笑)
【本紙】 海外生活が永かったようですね?
13年の単身生活>
【木村】 漠然とでしたが、海外に対して憧れがあったのです。どこでもいいから海外に行って、日本から出てみたいという気持ちでした。それで、海外に鉱山や石油の事業所がある日本鉱業(現 JXTG)という会社に就職しました。海外に行ける機会が多いと思ったからです。そして、3年目にアフリカのザイールに赴任しました。フランス語が出来ませんでしたので、フランス西部のロワイヤンという主にイギリス人の避暑地で、3ヶ月ほどフランス語の研修を受けました。そこはとても柔道が盛んで、毎日柔道も教えていました。ザイールではインフラが整備されておらず、日本との連絡通信は至難の業でした。半年後、妻は1才と2才の子を抱えてザイールにやって来ました。3人目の子はザイールで生まれました。その後も転勤の連続で、子供が産まれて育つ期間、通算13年間は単身生活でした。妻も言葉に出来ないくらい、4人の子育てが大変だったと思います。愚痴もこぼさず、よく耐えたと感謝しています。
【本紙】 ザイールでの生活はどのようなものでしたか?
ザイールで街づくり
【木村】 お世辞にも良いとは言えません。当時は貧しく泥棒も多く治安が悪い国でした。例えば、日本から輸入した車のバックミラーを盗まれたと思ったら、ある家の奥さんの鏡になっていたという事もありました。マラリアも雑菌もあり、現地人のボーイは、必ず虫下しを飲んでもらってから採用しました。しかし、銅資源は豊富でしたから、日本の国家プロジェクトになり、日本人が約百名、現地人の従業員が多い時で5千人も働いていました。海外からザイールで起業する企業は「とうもろこしを自給栽培しなさい」という決まりがありました。ブルドーザーで5百haの土地を開発して、ドイツ人技師を招聘し、とうもろこし栽培をしました。しかし、収穫する前に住民が勝手に持って行き、収穫量が極端に少なくなります。また、長崎大学の熱帯医学の先生と看護師さんを採用し、病院を作り運営していました。明星大と提携を結び、先生を派遣して日本人従業員の子弟教育も行っていました。低開発国での資源開発事業は、すべてのインフラ(食料、住宅、病院、学校、電気、水道、道路等々)整備から始まるので、まさに町を作るようなものですね。
【本紙】 それで日本に戻ってきたわけですね。
課題解決担当?
【木村】 日本に戻ってきて日立鉱山を皮切りに、神奈川、北海道、愛知、アブダビ、新潟、大阪、東京、そして済生会病院に事務部長として10年、勤務しました。鉱山の閉山交渉や、労働紛争への対応もありました。私が課題解決能力のあるなしに関係なく、柔道で鍛えた体が見込まれたのではないかと思います。冒頭で申し上げたとおり、私の人生そのものは柔道と共にあったのは間違いありません。フランスでも柔道を教えていましたし、アフリカでも柔道を教えていました。私が教えたザイールの柔道家がオリンピックに出ることになって朝日新聞のヨハネスブルク支局長が取材してくれたこともありました。思うのですが、人生は積み重ねですね。北海道の豊羽鉱山にいたときに、管理職に成り立てで、夜の会議の際にみんなの食べ物を食堂から持ってこい、と言われた事があります。「なんで俺が」と思いながらしょんぼり歩いていたのを社長が見ていたようで、「仕事というのは何もかもが全部大事でどこかで必ず肥やしになる」と言われたのです。今になって全くその通りだと思っています。何でも言われたら、指示されたら、素直に喜んで受けるというのは大事です。その事が70歳近くなってようやく解ってきました。
【本紙】 あらゆる経験が今に繋がっていますね。座右の銘やご自身で大事にしているものはありますか?
不偏不倚(ふへんふき)
【木村】 50歳で市役所に入職し、助役(今の副市長)を務めたわけですが、その時に一念発起してさくらマラソンの10マイル(約16㎞)に出ました。柔道ばかりで、走るのは得意ではなかったのですが、去年まで連続20年近く走らせていただいてます。今年もさくらマラソンには出る予定です。ただ、開会の挨拶をして、スターターをやって、その上で走るというのはあまり前例がないと言われてます。(笑)座右の銘は、以前は私の著書である「愚直に生きる」でしたが、市長に就任しましたので、公正で偏りがないことを意味する「不偏不倚」にしました。広報さっての私のコラムのタイトルでもあります。日々、色々な事がありますが、様々な出来事全ての中でバランスを保てるように、そして、市長という立場ですから、どちらかに偏る事なく公平に物事を見ていきたいです。私は市長を務めるにあたり、大きく4つの公約を掲げました。教育・子育て支援事業の刷新。医療・介護・福祉の見直し。公共施設の再編、整備。そして、災害・くらしに強い街づくりです。幸手市の未来の為に全ての市事業の総点検する時期だと考えています。その上で将来への道筋を作っていきます。短期間では大きな結果は出せないと思いますが、受け持った任期の中でやれるだけの事をやって、未来志向の街づくりを目指します。
【本紙】 期待したいと思います。では、お友達をご紹介ください。
【木村】 幸手市文化団体連合会会長の中村孝子さんをご紹介します。
【本紙】 ありがとうございました。益々のご活躍を祈念いたします。(木村市長には10人のお孫さんがおられるようです。そんな子供・孫たちの未来に、輝けるまちづくりを期待します。)