タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪596号(2020年5月10日発行) 
建築会社 元社長 大塚 操さん 大塚 チエ子さん

【本紙】 宮大工をされていたと伺いましたが?

【大塚】(敬称略) 確かに日本風の木造住宅を専門に建築していましたが、宮大工ではありませんよ。私は栃木県の狩野村(現在の那須塩原)の生まれで、昭和22年に東京に出てきて以来ずっと大工をやっていました。私の家は農家でその次男でしたので家を継ぐことはありませんでした。高校時代ですね、戦時中だったので教室に予科練のポスターが貼ってありましてね、毎日それを見ているうちにその雄姿に憧れて3年生の時予科練に入りました。予科練には偵察と操縦の二つの訓練課程があり、私は操縦士希望だったのですが、適性検査の結果、偵察の方に回されました。偵察の訓練は、モールス信号や風向きによる修正などの屋内訓練でしたので、屋外で訓練する操縦より楽でした。戦争終盤は青森の大湊で特別陸戦隊や一般召集の人たちと一緒に活動しました。私は偵察でしたから、本部から入ってくる通信を受けて、それを報告するのですが、4 桁の数字の暗号通信なので、私には何の事かは分からないのです。でも、周囲の雰囲気で何となく悪い知らせが増えてきたなと感じていました。1年2か月程在籍し、終戦を迎えましたが、戦地には赴くことはありませんでした。終戦の時は、天皇陛下の玉音放送を兵舎の前で聞いたのですが、雑音が多くてよく聞き取れませんでした。兵舎に戻って、はじめて無条件降伏した事を聞かされました。あの時の気持ちは言葉では言い表せません。皆で声を出して泣きました。

【本紙】 戦争の痛ましさを肌で感じられた貴重な体験ですね。

祖父から「手に職」を友達の輪写真

【大塚】 終戦後、実家に戻り農業の手伝いをしていたのですが、祖父から手に職をつけた方がいいと勧められ、建築関係の仕事に就く事にしたのです。18歳の頃ですね。東京の建築会社に見習で入社しました。始めは先輩の職人から教わりながら仕事を覚えました。誰よりも早く職場に行って、職人の道具を事前に用意をしたり、冬の寒い時期には焚火をしてお湯を沸かしておくという事もやりました。17年位経験し自信がついてきたので、35歳の時に川口市の東領家で自分の会社を興しました。高度成長期の頃だったので住宅がどんどん建てられた時代でした。1日と15日の月2日しか休みがなく、それ以外の日は朝から晩まで働き通しでした。幸手には平成5年に越してきましたが、仕事は77才まで現役でした。仕事を辞めて15年、今年の3月で92歳になりました。

【本紙】 お元気ですね。ちょっと目に入ったのですが、叙勲と書いてある彫り物はなんですか?

保護司34年

【大塚】 仕事を辞めた後、しばらく暇を持て余していたのですが、そんな折、出かけた先のデパートで東北物産展をやっていて、「幸せを呼ぶ珠宝寿」という木彫りの実演販売をやっていたのです。木材の中をくり抜いて、中に球を作るものです。手間のかかる難しいものなのですが、手先は器用な方なので、これなら私にも出来るかなと思って始めたのです。いくつも作るうちに技術も向上し、中の球を二層、三層に作ることができるようになりました。お世話になった方や子供が生まれた方や、初節句などの時に配ったりしました。となりに置いてある瓢箪もやはり仕事を辞めてから、庭で育てたヒョウタンの実から種子を取り出し、絵付けをしたものです。これも昔の取引先の開店祝いと一緒に差し上げるととても喜ばれました。木彫り球に書いてある叙勲というのは、家内が30数年間、保護司をやっていて叙勲されたときに記念に作ったものです。

【本紙】 いつからやられていたのですか?

【チエ子】 昭和52年から平成22年まで務めました。おかげさまで健康で長い間、人様のお役に立てて良かったと思っています。これだけ長く続けられたのも主人の理解があったからだと思っています。保護観察対象者がうちに来たりしますので、夕飯の支度が出来ないこともよくありますし、対象者のお宅が遠ければ車で送り迎えをしてくれたりと非常に助けてもらいました。

【本紙】  奥様もお若いですが、失礼ですがおいくつになられるのですか?

【チエ子】 86歳になります。元気でいられるのは地元のサークル活動である「ゆうゆうクラブ」の存在が大きいと思います。クラブの方たちに支えられて、年を取ってからでも楽しく何にでも参加できるというのはありがたいです。コミュニティセンターも近いですし、歩いて行けるというのもありがたいですね。

【本紙】 元気にいろいろな活動をされているようですね?

香日向に来てよかった友達の輪写真

【大塚】 そうですね。現在は、毎週、体操とパソコン、月2回のカラオケの会と昔の名作映画を鑑賞するビデオサークルに参加しています。それからいま一番力を入れているのは西公民館で習っている水墨画です。これも八十の手習いです。どれも、最初はゆうゆうクラブ(昔はシルバークラブという名称)に誘われたのが始まりです。以来色々な活動でお世話になり、今まで有意義に過ごしてこられました。

【本紙】 この写真は山車ですか?

【大塚】 香日向に来ての一番の思い出ですね。香日向小があった頃、毎朝聞こえてくる子供の元気な声で自分も元気をもらっていたように思います。香日向小が廃校になるときに、香日向ボランティアクラブの佐久間さんという方が生徒の思い出に残るような事をしたいと提案されたんです。香日向には子供祭りはあったのですが、町内に神社もありませんから、特にお祭りらしいお祭りというのはなかったのですね。そこで、山車を作って、その子供祭りで子供たちに山車を曳いてもらおうという事になりました。佐久間さんが山車の設計を行い製作は私です。もう現役を退いていた85歳の時でした。製作期間は一ヶ月近くかかりました。佐久間さんをはじめ、他のボランティアの方にも手伝ってもらいました。完成したときはみんなで喜びましたし、当時の町田市長も観に来てくれました。今でも子供祭りで使ってもらっていて、それがなによりの楽しみであります。

【本紙】 永く曳き回して欲しいですね。では、お友達をご紹介ください。

【大塚】 ゆうゆうクラブの創設者である、大和信夫さんをご紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。地域と共にご夫婦で楽しく元気にお過ごし下さい。(大塚さんご夫婦は仲の良いとても穏やかな方で、地域に感謝されているとお話下さいました。)