タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪597号(2020年5月24日発行) 
香日向ゆうゆうクラブ 元会長 大和 信夫さんへ

【本紙】 ゆうゆうクラブの創設者だそうですね。いつ発足されたのですか?

【大和】(敬称略) 創設者と言いますか、縁あって立ち上げに関わり、最初の会長をお引き受けしたものです。設立は平成4年になります。きっかけは、近所の方から「この地区には老人会はないんですか?」と聞かれた事なんですね。その方は、「もし香日向に老人会がないのであれば、近くの老人会に入ろうと思うんですが、出来れば作ってくれませんか?」という話で、当時の自治会長に相談があったのです。それで、老人会を作ろうと機運が盛り上がり、自治会長が平成3年の中頃にアンケートを取ったり、準備作業を行っていました。そして、平成4年度直前に会が出来上がろうとしていました。しかし、会長になってくれる人がおらず、困っているという事で私のところに話がきたのです。当時は私も現役で仕事をしていましたのでお断りしたのですが、それでも、やっぱり成り手がいないと、再び私のところに話が戻ってきました。「やる、やらない」の押し問答をしていたのですが、仕方なく土日のみ1年間だけ、という条件で引き受ける事にしました。当時の自治会長が一生懸命立ち上げをしていましたのでスタート時点で70名ほどの会員がいました。それで、約束通り、1年経って交代を伝えたのですが、やっぱり会長をやってくれる人が全く出てこなかったのです。仕事の方も平成7年に引退しましたので、そこからは時間が取れるようになりましたので、それからはクラブの活動に専念できるようになりました。なんだかんだで17年間会長をやっていました。

【本紙】 パソコンを教えているそうですね?

サークル活動友達の輪写真

【大和】 設立当初、他地区の老人会は懇親会や旅行会などが主でした。年1回の総会のみとか、クラブの連合会の企画旅行のみというところも多かったですね。それで、私はクラブを維持活性化するには、会員を増やす事が重要と考えました。しかし、入ってほしいと誘っても「俺はまだ老人じゃない」という人も多いのです。そこで、サークル活動を活発にして、いわゆる同好会のような形にすれば入ってくれる人も増えるのではないか、と考えて色々なサークルを作っていったのです。パソコンサークルを始めたのは確かに私ですが、先生役はクラブ内の元パソコン教室の教師をやっていた人にお願いしました。私を含め、少しパソコンを触れる方もいましたので、ちょこちょこと教えてもいました。その他、ビデオサークル、茶話サークル、体操サークル、最近ではカラオケサークルも作りました。手芸サークル、書道、園芸、囲碁などのサークルも作ってはみましたが、会員が段々減って自然解散となってしまいました。

【本紙】 ビデオサークルですか?

秘蔵映画300本

【大和】 昔からテレビで映画を放送していますが、現役時代は観る時間もありませんでした。そこで、暇になったら観ようと、放送していた映画の中から、観たいと思ったものを録り貯めたのです。ところが、本数が多すぎて、今度はそれを観る時間がないという本末転倒な事になってしまいました。300本近くも録り貯めたのだから、みんなで観るサークルを作ろうと、希望者で月に2回鑑賞会を行うようになりました。でも、皆さん好みが違いますから、リストの中からアンケートを取って、希望者が多かった作品から順番に上映するようにしました。プロジェクターを持っていますので、最初はコミュニティセンターで開催しましたが、機材を運ぶのが大変なので、参加者にはご面倒をおかけしますが、自宅で上映にさせていただきました。また、個人的な趣味ですがビデオ編集もやっています。海外旅行のビデオを編集したり、最近は旅行にも行かなくなりましたから、友人などのビデオ編集を手伝ったりしています。ビデオ編集は時間がかかって大変な作業ですが、1本の映画を作っているようで楽しいですね。

【本紙】 小学校で戦争体験講座もされてるそうですね。

速成教育は特攻兵友達の輪写真

【大和】 毎年1回、長倉小で戦争の話をしています。戦時中の事を伝えていくのは年寄りの仕事のひとつなのかなと思っています。長倉小の前は香日向小でやっていましたが、残念ながら統廃合でなくなってしまいました。以前は吉田小でもやっていました。私は現在95才ですが、戦地に行く直前に終戦を迎えました。開戦前は満20歳で徴兵検査を受けて、検査に合格すれば数ヶ月後に通知が来てそれから兵隊になる仕組みでした。最初は二等兵から始まって、一等兵、上等兵と位が上がっていくのですが、上等兵になるには最低でも2年はかかります。ところが、旧制の中学校を卒業していれば、幹部になる試験を受けられるのです。それは幹部候補生といって、その試験を受けて合格すると、将校になるための教育を受けられるようになります。昭和20年は戦況も悪化していて、将校もどんどんいなくなってしまいました。そこで、9ヶ月で将校にするという速成教育が始まったのです。その教育は、基礎訓練は旧制中学で済んだものとして見なして、それぞれ専門の兵科に入るのです。その中で9ヶ月という短期間で将校を育て上げていくのです。これは私の場合の話ですが、専攻は電気通信でしたから、電波探知機を扱う電波兵の採用試験を受けました。当時は「地下壕の中でレーダーを操作すればいい」と気楽に考えていたのですが、終戦になってから偶然知ったのですが、電波兵は水上特攻隊だったのです。ベニヤ板で作ったボートに250キロの爆弾を括り付けて、敵艦に突撃するのです。特攻隊というと、神風特攻隊や潜水艦による人間魚雷が有名ですが、こういったものも実はあったのです。10艇ほどの艇団を組んで、夜の闇に紛れて移動するわけですが、そんな夜の中を移動するにはレーダーが不可欠で、艇団の先頭に立つレーダー操作者を育てるというのが、電波兵の速成教育の真相で、特攻隊の養成だったのです。8月に終戦を迎え、私は戦地に行く事はありませんでしたが、終戦を迎えなければ9月入隊で特攻兵となっていました。でも、水上特攻隊にしても、実際にどれくらいの戦果を挙げたというのは、はっきりとした記録も残っていません。悲しいことです。

【本紙】 悲惨な体験ですね。これからも語り続けて下さい。では、お友達をご紹介ください。

【大和】 小学校での戦争体験講座などで関わりのある幸手市教育長の山西実さんをご紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。人生100年時代の先駆者として益々元気にご活躍下さい。(大和さんは95才だそうですが、パソコンに向かいビデオ編集や戦争体験の執筆など、とても若々しく感じました。見習いたいものですね。)