友達の輪601号(2020年8月9日発行)
玉村造園代表 玉村 光弘さんへ
【本紙】 玉村造園は代々造園業を続けてこられたのですか?
【玉村】(敬称略) 造園業は私の代から始めたものです。平成6年11月に登録手続きを済ませました。
【本紙】 造園業をやろうと思ったきっかけはなんですか?
【玉村】 私の実家は農家でしたので、あとを継ぐために杉戸農業を卒業しました。ただ、その当時から少しずつ時代が変わってきており、農業を取り巻く環境も同様に変化していました。農業だけでは収入面に不安もあり、親戚の人から「農閑期に造園会社に出稼ぎに出てみないか」と誘われたのです。高校を卒業して家業を手伝っていた時期ですから、19歳の頃ですね。出稼ぎと言ってもここからの通いでした。朝は始発電車で帰りも遅くなるわけですから、いくら若いとはいえ大変でした。東京の世田谷や田園調布の方まで行った事もありますね。田園調布には豪邸もたくさんあって、そこには大抵見事なお庭がありましたね。そんな場所で修業をさせていただいた事は今でも誇りに思っています。朝早く電車に乗って毎日通い、約4年間程やっていたのですが、身体にも負担がかかり、これはちょっと無理かな、と造園業以外の職業を考えるようになりました。それで、肉鶏を育てようとしたのです。
【本紙】 肉鶏というと食用の鶏ですか?どのくらい飼われていたのですか?
農業からの転身
【玉村】 ブロイラー用の鶏3000羽位だったと思います。ブロイラーをやっていた同級生から薦められて始めたのです。広い用地に鶏を放し飼いで飼育していました。3000羽を育てて何回かに分けて出荷し、出荷したら、また雛を補充して育てていくのです。しかし、鶏の糞や羽などの他、ほこりも多く清掃が一苦労でした。また、鶏を出荷する際には逃げ回る鶏を捕まえないとならないので、それもまた大変でしたね。私一人では手に負えないので妻も一緒に協力してくれました。結局、ブロイラーの仕事は4~5年続けたと思います。しかし、その当時はいろいろ資金が入用で、ブロイラーと平行して道路工事の仕事も兼業したりしていました。そして、ブロイラーも大変なので、辞めようと考えた時に、昔やっていた植木屋がやっぱりいいかなと思うようになって、近所の植木屋に手伝いに行くようになりました。
【玉村】(奥様) 私としてはブロイラーを辞めて植木屋の方がありがたかったですね。鶏の世話は本当に大変でしたから。
【本紙】 そうして紆余曲折を経て造園になったわけですね。
造園の国家資格
【玉村】 一応農家もやっていましたので、兼業での造園業ですね。最初は大宮の方まで10年間くらい修行の一環で通っていました。今やっている事は全て向こうで教わった事です。当時、造園技能士という国家資格が出来ました。この資格は造園に関する実地試験と学科試験があるのですが、運も良かったのか、一回で合格する事が出来ました。その他にも施工管理という技能士とは別の管理士の資格もありました。こちらの資格は創設されたばかりで2級資格は講習で取得する事が出来ました。こういった資格に関しても、大宮に勤めている時に技術向上になると、色々と教えていただきました。そして、自信もついてきましたので、思い切って親方に相談しましたら、背中を押して勇気をもらい、昭和63年に独立しました。
【本紙】 最初はおひとりでやっていたのですか?
夫婦二人三脚
【玉村】 妻とふたりでやっていました。
【本紙】 奥様も造園のお仕事が出来るのですか?
【玉村】(奥様) 簡単な作業などは教わりましたが、主にやっていたのは剪定した際に出る枝や葉っぱの片付けなどのお手伝いです。千葉に行ったり、埼玉では所沢の方にも、主人と一緒に色々なところに行きました。今はもう足腰も随分と弱ってきてしまっているので、同じような事は出来ませんね。その後、友達関係からの紹介で従業員を採用しました。最初の頃は3~4名でしたね。今が一番多くて7名います。
【玉村】 造園業の仕事も随分様変わりしてきました。昔は造園工事も多かったのですが、今では随分と減ってしまいました。会社や公共施設の緑地管理や、学校やお寺の植木の仕事などが多くなっています。職人を抱えて仕事をしていますので、やりくりは大変ですね。特に私たちの仕事はお客様あってのことですから、日曜祝日問いません。家族を持った職人さんもいますので、職人さんは日曜日はお休みにしています。
【本紙】 後継者はいらっしゃるんですか?
後継者は先生
【玉村】 息子が一緒にやっています。息子は最初は植木屋ではなく学校の先生になりました。ところが、 31歳くらいの時に「今からでも植木屋になれる?」と相談を受けたのです。実のところ、息子が先生になりたい、と言ったところで、造園業は私の代で辞めてしまおうと思っていました。私は相談を受けた時、「教師は辞めないで、そのまま続けろ」と言ったのです。せっかくなりたい教師になれたわけですから、辞めるのはもったいないですから。
【玉村】(奥様) 学校の仕事が自分の思っていたものとは違っていたみたいなんですね。31歳だし、転職をするなら今しかない、という感じで相談されたのです。
【玉村】 私はもう辞めようと思っていましたから、ちょっと困ってしまいましたね。でも、息子がやる気を出しているわけですから、手伝えることは手伝おうと思ってやってきましたら、この歳になってしまいました。仕事は現在、私と息子とふたつのグループに分かれています。
【本紙】 玉村さんは現役ですか?息子さんとは一緒に仕事場に行くのですか?
親子で分担
【玉村】 私は体には恵まれていて、今まで病気で入院した事がありません。現役バリバリです。それで、昔からのお得意さんや個人のお宅は私がやっています。息子は公共事業や会社関係が中心ですね。
【玉村】(奥様) 主人の病気知らずは、玉村家のDNAじゃないかと思いますよ。主人の父が97歳まで長生きしましたし、主人のおばあちゃんは100歳まで長生きしました。
【本紙】 健康が一番ですね。ご趣味ややってみたい事などありますか?
【玉村】 趣味はほとんどないですね。昔は旅行などによく行っていましたけど。今年はバリ島に行きましたが、帰国時に成田空港で検温が始まった時期でした。遅かったら帰国できなかったかもしれません。毎年農協さんのツアーにお世話になっています。やってみたいことは最初から自分で植木を育てて、自分だけの植木というものを作ってみたいと思いますね。
【本紙】 では、お友達をご紹介ください。
【玉村】 彫刻の先生をやっている木村利秋さんを紹介します。
【本紙】 ありがとうございました。玉村さんのお宅には造花もたくさん飾られていました。奥様が10年程続けているパンフラワーだそうです。花や樹木を愛されるご夫婦でした。