タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪603号(2020年9月6日発行) 
株式会社アラカワ会長 荒川 克正さんへ

【本紙】 創業者だそうですね。このお仕事のきっかけは?

【荒川】(敬称略) 昭和46年創業です。私は接客が苦手で勉強嫌いでした。父は私の性格を見抜き「これからは自動車の時代になるから、自動車整備の仕事はどうだ?」と勧めたのです。それで、高校卒業後、埼玉自動車整備技術学校に通い、2級整備士の資格を取り、横浜のトヨタカローラに入社。寮生活でしたが、給料も良かったので選んだように思います。1年半ほど勤めましたが、色々考え地元に帰り、一人でやろうと実家の長屋を利用して、車の整備や車検を始めました。当時、私は修理のコストも考えて解体屋を回り中古部品を入手していました。ある時、池田解体の社長から「なんで工場を作らないんだ」と聞かれたのです。「お金がないから」と返したところ「俺がお金を出してやる」と言うのです。その話を父にしたところ、そういう事はきちんとしなければという事で、正式に契約を結び、そこからの資金と商工会から借りたお金を使って、今のところに工場を建てたのです。工場は川越工業高校の実習場を壊すという話を聞き、その実習場を移築したものです。65坪と広さも丁度よく、クレーンもあり非常に具合が良かったのです。しかし、事務所はないので鉄骨を溶接し自分で作りました。

【本紙】 いい人に巡り合いましたね。

工場は出来たけど

【荒川】 工場と事務所を作りましたが、実は住まいがありませんでした。それで、中古バスを工場の後ろに置き、座席を全部外して居住スペースを作りました。父に「ヒバリだって自分の家は自分で作るんだから、家くらい自分で作れ」と言われたのを覚えています。バスには3年ほど住んでいましたが、向かい側に電電公社が出来る事になり、当社の敷地内にプレハブ事務所を立てさせて欲しいと頼まれました。その時、たまたま父がいたのですが、「バスの中に住んでいる人がいるというのを可哀相と思わないのか?土地はタダで使っていいから、工事が終わったらプレハブはそのまま置いておけ」と言うのです。工事側にしても、プレハブを解体する手間が省けるから良かったのでしょう。そうして、工事が終わったあと、その12坪ほどのプレハブに昭和60年まで住みました。

【本紙】 お父さんはユニークな方ですね。いろいろな縁も感じますね。

人と人とのつながり友達の輪写真

【荒川】 父はちょっと変わった人でしたね。農業をやってはいましたが、これから農業は米があまると見切りをつけ「これからは幼児教育の時代だ」と、廃校になった小学校を借りて幼稚園経営を始めたのです。その幼稚園は国から認定を受けて、今の川妻おひさま園です。その後、昭和50年の夏に埼玉スズキの社長と部長が拡販に来ました。妻が子供をおぶって事務をしていましたが、クーラーもなく、手作りで車のラジエーターと地下水を利用した自作のクーラーで凌いでました。スズキの方々はそれを見て不憫に思ったのかも知れません。社長が事務所を作ってやるから、スズキの車を拡販しなさいと言うのです。普通は折半ですが、全額スズキ負担で事務所とショールームが完成しました。もちろん、スズキ車の拡販に全力投球しました。人との縁は節目節目に感じます。私が26歳位の時に、キユーピー物流に山本さんという営業所長が赴任しました。趣味も同じ登山でした。しばらく営業所にいたのですが、一時本社に戻り、今度は社長になって戻ってきました。そこで「車の板金もやっているのなら、キユーピーの車を上がオレンジで下がクリーム色の指定色に塗装する仕事があるからやってみないか」と言われたのです。ご縁が仕事に繋がり、一時はボディの載せ替えもしていました。今でも年間100台以上の塗装を請け負っています。私の人生では人との繋がりを強く感じます。池田解体屋さん、埼玉スズキの社長がいて、山本社長とたくさんの人に助けられてきたと思います。

【本紙】 登山は若い頃からずっとやられているのですか?

ヨーロッパアルプス三大名峰友達の輪写真

【荒川】 子育て中は夏に1回2回と登るくらいでしたが、時間が出来た今では本格的にやっています。山が好きというのもありますし、健康と体力維持という理由もあります。登山だけでなくスキーなどにも行っていました。登山に関しては海外にも行きました。60歳の還暦の時、仕事も現役でしたが、1ヵ月の休みを貰い、一人でマッターホルン・アイガー・モンブランの三大名峰と他の山にも登ってきました。登山には苦労しなっかたのですが、言葉には大変苦労し、一番困ったのが、チューリッヒに着いてからで、地下鉄に乗って市内のホテルに辿り着く事までです。なんとかホテルに辿り着きましたが、言葉も文字も解らない中でよく1ヵ月もやってこれたなと思います。子供のころもっと勉強をしておけば良かったとつくづく思いました。でも、そういった苦労も含めて一番思い出に残っていますね。また一年後、妻が「主人が登った外国の山に一つぐらいは登りたい!!」と。この話を所属する野木山想会のメンバーに話したら、ぜひ、一緒に行きたいと言うので、翌々年に私たち夫婦を含めた合計9人でモンブランに登りました。写真は夫婦でモンブラン登頂のものです。ただ、事前の訓練には時間をかけました。雪山訓練、スピードを求めての富士山日帰り登山。富士山に早朝7時から登山開始、午後2時時点で登頂できなければその場から下山という条件で、登頂が出来なければモンブランは登れないというものでした。みんな必死に頑張って無事モンブランを制覇しました。その後、ヒマラヤメラピーク(6500m)に登頂しました。ヒマラヤ登山ではシェルパ、キッチンボーイ、ポーターを頼みます。その中に15歳のポーター(40kgの荷物運び)が居ました。私たちと1ヵ月間共にすると、1年分の家族の現金収入になるそうです。ネパールの農業は私の子供のころの形態でネパールの人々の生活の厳しさを感じました。

【本紙】 凄いですね。さらにチャレンジしたい事はありますか?

【荒川】 地域の人や子供たちと山登りを続けたいと思っています。過去に100Kmマラソンに挑戦したのですが、82.5Kmでリタイアしました。夢になるかもしれませんが、70歳代で100Kmマラソンを完走というのは非常に難しくやりがいのある事だと思っています。

【本紙】 いつまでもお若いですね。では、お友達をご紹介ください。

【荒川】 はなの郷 田園福祉企画 木村光行さんを紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。ぜひ、100kmマラソン完走して下さい。(荒川さんは2011年の東北大震災でも修理工場の道具を積んで救援ボランティアに行かれたそうです。そこでの体験や登山の経験を、五霞町の子どもたちに感じてほしいと講演活動もされています。スケールの大きな方でした。)