タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪630号(2021年10月24日発行) 
昌平中学・高等学校ラグビー部監督 御代田 誠さんへ

【本紙】 ご自身もラガーだったのですか?いつから監督をやられているのですか?

【御代田】(敬称略) ラグビーは国学院栃木高校(国栃)の1年生の頃から始めました。当時ラグビー部はなく、ラグビー愛好会が出来て、在籍していました。高校2年の時に国学院久我山を5回優勝させた中村先生の師弟となる吉岡先生が赴任してきて、そこから私の本格的なラグビー生活が始まりました。高校2年までは愛好会で、高校3年で部に昇格して県大会にも出場しましたが、惜しくも準優勝で花園へは行けませんでした。そこから何としても花園に行きたいという気持ちが強くなったのです。しかし、高校3年で無理ですから、ならば、選手としては無理でも、指導者として行こうと思ったのです。

【本紙】 大学でもラグビーはやられたのですか?

北海道から埼玉へ

【御代田】 国学院大で4年間ラグビーをやって教員を志すのですが、卒業一年目の教員採用試験は通らず、塾の講師をして生活しました。2、3、4年目は浦和学院(浦学)で部活動講師と事務を兼任しました。27歳の時に北海道と埼玉の教員採用試験を受け、北海道に合格しました。北海道生まれでしたので、喜んで行きましたが、ラグビー部のある学校に赴任できず、やったことのない陸上部の顧問でした。でも、赴任校近くの旭川工業高校のラグビー部監督が先輩で、顔を出してラグビーに関わらせてもらいました。4年目、担任を持って卒業生を出す年に、母校の恩師から「国語の教員の空きがあるから戻って来い」と、国栃に赴任したのです。その恩師の下で6年間、コーチについて学ばせてもらいました。5年目に昌平から、「ラグビーに力を入れるから監督に来てくれないか」と誘われたのですが、当時は栃木県の少年の代表監督をしており、任期2年が終わるまで待ってもらうことにしたのです。都合6年間、国栃に勤めた後、2008年に昌平に赴任しましたが、驚くことにラグビー部の部員はわずか3名でした。

【本紙】 わずか、3名ですか?

部員3名の監督友達の輪写真

【御代田】 それで、毎日校門に立って、体格のいい生徒を見つけると声をかけて名前を聞いて、担任の先生に「放課後ラグビーの練習を見に来てほしい」と伝言、健康診断の時に身長を測る係を担当し、身長の高い生徒を見つけたら、同じように「練習を見に来てほしい」と奔走してました。その甲斐あって、新一年生が13名入ってくれました。他の部活を辞めて来てくれた生徒もおり、おかげさまで赴任一年目から15人制のラグビーで、単独チームとして大会に出ることが出来たのです。当時、埼玉県では深谷高校が強く、昌平に来て4年目に試合した時は0対107という散々なものでした。ただ、その時に思ったのは埼玉県チャンピオンの深谷高校との差は100点だから、その差を縮めればいいと捉え、埋めるまでに10年かかりました。そして、花園全国大会に2017年初出場しました。滋賀県の八幡工業と対戦したのですが26対22で勝ち、2回戦は前年度優勝の東福岡高校に、前半は7対14で折り返しましたが、7対68と大敗しました。前年度優勝校と初出場校との試合で、200点、100点という試合になるだろうとの前評判でした。初出場の昌平が予想以上に善戦したのか、朝一番の試合で前半が終わった時、場内には2重、3重の観客の輪が出来ていて、非常に多くのお客さんに見てもらえました。

【本紙】 すごいですね。ところで高校では何を教えられているのですか?

監督で花園に

【御代田】 昌平に来たときは国語の教員でした。その後、中学校開設で体育と技術を教えることになりました。私はラグビーの監督で花園に行きたくて教員になったのですが、最初は国栃から日体大に進み体育の教員を目指したのです。しかし、当時は日体大に行くのが難しくて国体の代表や高校関東代表といった実績がないと厳しかったのです。国栃の恩師に相談をしたら、体育でも国語でも教員になればラグビーを教えられるから、とアドバイスを受けて付属の大学に進みました。付属にも文学部や法学部、経済学部など色々と学部があったのですが、社会の先生より国語の先生の方がなりやすいと思って、文学部に進みました。それで、国語教員の免許を取って、北海道で国語の教師をやりながら、北海道教育大学に週に1回職免(職業義務免除)という形で体育の免許を取るために通わせてもらい体育の資格を取ったのです。その後、国栃で国語を教えていましたが、技術の教員免許を持っているのがいないから、体育の免許と同じ要領で技術の免許も取ってこい、ということになって、宇都宮大学まで技術の免許を取りに行ったのです。そして現在、ここで技術と体育を教えているわけですから、何もかもが無駄にならずに繋がっているように感じます。

【本紙】 諦めなければ可能性はあるのですね。

あきらめない友達の輪写真

【御代田】 私もそう思います。諦めない限り夢に近づくことは出来ると思って、今までずっとやってきました。浦学のコーチ時代から、いつになったら教員になれるのだろう?と思いながらもまず教員にならないと始まらないと努力して、何とか北海道の教員試験に受かった。でも、現地に行ってみたらラグビー部はなく、陸上部の顧問だったけど、じっと我慢をしていたら母校から誘いが来て戻ってこられた。母校ではコーチだったけど、監督の話が来てそれに乗ってやってきたら部員が3名だった。でも、この3人が私のチームだから、ここからどこまで強くするかと考えるようになり、今では年3回の全国大会である冬の花園、春の全国選抜、夏の7人制のいずれかには必ず出場していますし、一昨年は7人制で初優勝することも出来ました。あきらめちゃダメですね。

【本紙】 ラグビー以外の趣味などありますか?

【御代田】 ラグビー一筋でしたが、40歳前半の頃、高校の恩師が「サーフィンを始めたので千葉の海まで行くから迎えに来い」と言うのです。私はハイエースに乗っていましたので、その流れで一緒にサーフィンを始めました。ところが、実際にやってみると面白いのです。今は五十肩になってしまって、パドリングが上手く出来なくなってしまい、あまり行けていないですが。

【本紙】 サーファーですね。では、お友達をご紹介ください。

【御代田】 教え子ですが、キッチンカーでクレープを移動販売している大沢一翔さんを紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。今後も強い昌平ラグビーを見せて下さい。(部活中に取材させていただきましたが、取材中も的確な指導をされる姿が印象的でした。)