タウンプレスよみうり

読売センター幸手が隔週で発行している地域ミニコミ紙「タウンプレスよみうり」の内容をご紹介

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友達の輪653号(2022年10月9日発行) 
上高野FC代表 中村 彰宏さんへ

【本紙】 上高野FCは歴史があるようですね。

【中村】(敬称略) 私の父が1981年に作ったチームです。父自身はサッカーはやっていなかったのですが、兄がサッカーをやっていました。当時は上高野にサッカーチームがなく、長倉小まで行ってサッカーをやっていたのですが、兄が「上高野小学校でサッカーチームを作りたい」と父に相談したところ、「じゃあ作ろう」と出来たチームで、始まりは兄の為でもあり、地域の子供たちの為だったのです。私は兄や従兄のサッカーを見て、幼稚園の5歳からサッカーを始めました。私が小学6年生の頃に、父が3年後くらいに日本にもプロリーグが出来ると話をしていたのです。私がサッカーを始めたきっかけの従兄は、東海大浦安高校でサッカーをやっていました。私は幸手西中でサッカーをやっていて、同級生に浦和レッズで活躍した佐藤太一君がいました。彼とは今も上高野FCで一緒に指導していますが、西中時代、彼と一緒に優勝すれば全国大会に行ける春の県大会で惜しくも準優勝。そして、次の夏の大会では雪辱を果たして埼玉県で優勝したのですが、夏の大会は全国大会へは繋がっていないのです。西中サッカー部で全国への切符をつかめずに悔しかったですね。そんな中、県大会で優勝した時、従兄繋がりで東海大浦安の監督が見に来て「東海大浦安に来い」と誘っていただいたのです。

【本紙】 スカウトですね。東海大浦安もサッカー名門校ですね。

仲間がプロに

【中村】 従兄が行ってましたので、私も東海大浦安に進みサッカーを続けました。東海大浦安は学校内にある寮生活で、専用グランドもあり、朝練、授業、夜練、寮へ戻る、の繰り返しで文字通りサッカー漬けでした。実家に帰ってこられるのは3ヶ月に1回くらいでしたね。高校時代の戦績は、県大会決勝で負けたり、準決勝で負けてしまったりで、負けた相手が全国優勝をするという感じでした。特に市立船橋は強かったですね。毎回、あと1回勝てばインターハイ、1回勝てば選手権というのを繰り返していましたので、やっぱり悔しかったです。そして、高校1年の時にJリーグが出来て、さらにプロになりたいと思いました。そんな中、佐藤太一君は高校卒業してプロになりましたので、内心では嬉しい気持ちと悔しい気持ちがありました。それもあり、夢をあきらめず、進学して東海大でサッカーを続けました。

【本紙】 大学卒業後はサッカーはどうされたのですか?

夢への挑戦友達の輪写真

【中村】 いくつかのJリーグチームのプロテストを受けました。しかし、合格出来ず、サッカーは大学で引退を決めて、一般就職し趣味の範囲でサッカーを楽しんでいました。その間、佐藤太一選手がプロで活躍したり、大学時代の同級生や先輩がJリーグで活躍している話を聞いたりしました。プロは諦めたとはいえ、身近だった人たちの活躍の話を聞いてしまうと、どこか悶々とした気持ちを抱いてしまうものですね。そんな時に日本でシンガポールリーグのプロテストがあることを知ったのです。テストの日は偶然にも有休を取っていて休みでした。それでテストを受けたところ一次テストに合格し、次の二次テストも合格して、最終テストをシンガポールで開催するのでシンガポールに行くことになりました。ちなみに現地まで旅費は自費だったのですが。(苦笑) 会社には二次テスト合格時に、退路を断って退職を伝えました。退職する1ヵ月前に言わないと駄目なのですが、「夢を追いかけるから」ということで理解してくれました。日本からシンガポールに行ったのは15人で、契約まで至ったのは私ともう一人だけでした。

【本紙】 シンガポールリーグは何チームあるのですか?チームに所属してどんな感じでしたか?

シンガポールでプロに

【中村】 シンガポールリーグはJリーグを真似て作られたもので当時は12チームです。現在は8チームかと思います。テストの時はたまたま調子が良くて受かったという感じでしたので、2年間のブランクがありましたから、シンガポールのチームに入ってからは大変でした。まずは、体作りに励みましたが、現役だった頃の体にはすぐに戻れなかったですね。シンガポールについてからの1ヶ月間はテスト期間で、最初のチームには選考に落ちてしまったのですが、3チーム目のセンバワンレンジャースというチームに入団することが出来ました。シンガポールリーグは外国人選手の助っ人枠という形があり、試合にはレギュラー前提という形で参戦しました。そして、選手としては11年、最終的に17年滞在していました。実は選手だったときにシンガポールでサッカースクールを立ち上げたのです。シンガポールには日本人が多いので駐在で来ている日本人やローカルの子対象にサッカーを教えていました。それで、選手引退後にもそのサッカースクールを運営しながら、生活してきました。

【本紙】 地域に対しての夢のようなものはありますか?

いつかはプロを友達の輪写真

【中村】 地域を盛り上げたいという気持ちはあります。自分の人生、サッカーを通じて色々な経験をして成長させてもらったので、今度はサッカーを通じて地域に貢献できればと思います。それもあって、上高野FCとまた新たに佐藤太一君と「Rebola FC」を立ち上げました。REがリレーションシップ、BOLAがポルトガル語でボールという意味でボールで繋がる出会いを大切にしようというクラブです。佐藤コーチが中心で幼稚園児~小学生対象のサッカースクールを開催しています。また来年設立予定でジュニアユース(中学生チーム)も立ち上げます。監督として元浦和レッズの山田暢久さんを迎える予定です。中学生のクラスは一応セレクションはありますが、出来たばかりのチームなので、Rebola FCにてプレーしたいと思ってくれる選手は受け入れるつもりです。練習は主に栗橋さくら幼稚園と栗橋北彩高校でやっています。地域になくてはならないチームを作りたいです。

【本紙】 Rebola FC楽しみですね。では、お友達をご紹介ください。

【中村】 権現堂で「ことこと」という料理屋をやっている山内亜希子さんをご紹介します。

【本紙】 ありがとうございました。これからも地域のためにご活躍期待しております。(中村さんは常に『感謝』を心に留めているそうです。その中で夢を追い求め、挫折してもあきらめず、チャレンジする姿の大切さを教えていただきました。上高野FCは小学校限定のチームで入団希望者への地域的な条件等はないそうです。また、来年、中学生を対象にした新しいチームも作る予定だそうです。ゆくゆくはプロ選手が生まれたら、感無量と話されてました。)