友達の輪678号(2023年10月22日発行)
長倉小学校 校長 井上 弘江さんへ
【本紙】 先生になろうと思ったきっかけはなんですか?
【井上】(敬称略) 最初は一般企業に就職しました。服飾関係で衣料管理士という資格があり、それを活かした仕事をしたいと思いアパレルの会社に入社しました。衣料管理士は簡単に説明すると、洋服をどのように扱ったらいいかとか、服の洗濯表示とか、デザイナーと製品化する部署でした。しかし、入社した部署では足の引っ張り合いや、入ったばかりの新人のデータを上司が自分の物のように扱ったり、一般企業は正義の通らない世界なのかなと思ったのです。今思えば、その部署でやっているわけですから仕方のないことですが、その当時は自分のやったものが自分の評価に繋がらないことに不満を募らせていました。また、矛盾した事柄も多く、正義の通る世界に行きたいなと思うようになっていました。
【本紙】 正義の通る世界ですね。
いきなり担任
【井上】 ある日の帰り道、母校の横を通った時、グラウンドで子供が運動している姿を見たのです。ここなら、正義が通るかもと感じて学校の先生になろうと思ったのです。中学と高校の教員免許を持っていたので、父に先生になりたいと相談しました。父は教育関係に友達が多く、方々に話をしてくれました。そうしたら、小学校なら可能性があると教えてくれたのです。小学校の免許は持っていなかったのですが、聞くと臨時免許があって小学校でも働けるので、その間に通信教育等で免許を取ればとアドバイスされました。それで、アパレルの仕事を7月で辞めて、夏休み中に臨時免許を貰い、10月から臨時採用が決まりました。ところが、急に9月から休む先生が出て1ヵ月早まったのです。勤務先は私の地元、桶川でいきなり小学校1年の担任でした。教育委員会の先生もみんな教わった先生ばかりで、私を知っているせいか遠慮なく、「弘江さん出来るでしょ」と言うのです。内心は「出来ません」と思いましたが、「頑張ります」と答えました。でも、教育実習も高校しか経験がなく、日本語が全く通じないような一年生には「なにを喋っているのだろう」という感じでした。でも、周囲の先輩たちの助けを借りて、なんとか乗り切ることが出来ました。見習いのような1ヵ月が過ぎ、10月からは違う学校で2年生を担任することになり、同じように周囲の方たちに助けていただきました。
【本紙】 最初から先生になろうという感じではなかったのですね。
絵本「いやいやえん」
【井上】 大好きな絵本に「いやいやえん」という本があるのですが、どんなことでも「いやだいやだ」という子供が主人公で、ある話では赤いのは嫌だ、と言って手袋を投げてしまうのです。それを見た園長先生は「嫌いなら嫌いでいいよ」と放っておくのです。その日のおやつがリンゴで、それを見た子供が「リンゴだー」と喜んで駆け寄るのですが、園長先生が「あんた、赤いのは嫌いなんじゃなかったの?」と言い放ってあげないのです。そういう「いやいやえん」の園長先生みたいになりたいという気持ちはありましたね。高校の教育実習に行ったときも、生徒たちは「先生、先生」と慕ってくれましたが、その時にはアパレル会社に内定が決まっていて、心の中ではこの子たちを裏切っているという後ろめたい気持ちがありました。教育実習自体は楽しかったので、いつか機会があれば先生になるのもいいかも、という軽い気持ちだったと思います。
【本紙】 関わってきた子供たちも相当数になりますね。
冬はどうして寒いの?
【井上】 何百人になると思います。大きな同窓会はありませんが、個別に何人かで会えたり、学校に遊びに来てくれたりします。私が担任した子供はほとんどが社会人になっていますが、4年、5年程前は学生の子もいて、進路相談に来たりしました。行幸小のとき、教え子が「採用試験に落ちちゃった」と相談にきたことがありました。「臨採でもやってみたら?」と言ったところ「先生のところでやってもいい?」と言うのです。「甘えるんじゃない」と思いましたが迎え入れたのです。すると、こっちも恥ずかしくなるようなときがあるのです。先生方が「ありきたりな宿題ばかり出しちゃ駄目だよ」なんて言うとその教え子が「そうですよね!」って強めに言うのです。それに興味を持った先生が「どんな宿題出されていたの?」って聞くわけです。「冬はどうして寒いの?とか夏はどうして暑いの?という宿題を出されていました」とか喋ってしまうのです。ふざけた宿題もありましたが、答えがひとつじゃない宿題を出したかったのです。その子のお父さんは教員一家で、お母さんは園芸農家で、どっちの実家にも聞いたようで、お父さんの方は赤道がどうこうと理論的に答えて、お母さんの方は秋の次だから寒いんだ、なんてことを言ったらしいのです。まずお父さんに聞いて、そのお爺ちゃんお婆ちゃんに聞きに行ったら、お父さんが言ったことをお爺ちゃんが言って、お母さんが言ったことをお母さんのお爺ちゃんが言いました、というのを書いてきて、すごく印象に残っていたのです。私としては難しい問題ではなく、家族でコミュニケーションが取れる宿題を出したつもりでした。その教え子は無事に本採用になって今でも現職で頑張っています。
【本紙】 教え子が先生を目指すということは、先生が好きだったということですね。
折り紙メダルの弘江賞
【井上】 そう思うとありがたいですね。子供が卒業したあとも「勝手に家庭訪問」というのをやっていました。受験の時期や、新聞に載るくらいの大会で優勝した子のところに訪問するのです。現役の頃に「弘江賞」と言って、その日に良いことをした子に折り紙で作ったメダルをあげていました。大会で優勝した子のところに行った際も「優勝したのを見たから弘江賞を持ってきたよ」って言ったのです。たまたまその子が自宅にいて、正直に言うと、もう中学生だし、ぶっきらぼうに「ありがとう」で終わるかと思っていたら、元気よく「ありがとう」と言って首にかけたのです。その子は「弘江賞って首にかけるものじゃん」と事も無げに言うのです。その子が喜んでくれて私自身もすごく嬉しくなりました。他の子のところにも行ったりして「お婆ちゃん元気?」とか軽い世間話もします。行く先々で色んなものをいただいたり、ローカルなコミュニケーションを楽しんでいました。そんな昭和のようなやり方が染みついていて、校長になってもこんな感じですが、そのおかげか行幸でも長倉でも地域の方たちが本当に良くしてくれています。
【本紙】 地域あっての学校ですね。では、お友達をご紹介ください。
【井上】 教育委員会にお勤めの内藤順子さん貴史さんご夫婦を紹介します。
【本紙】 ありがとうございました。笑顔を絶やさない子どもたちの育成にご尽力ください。(井上校長先生はとても明るい方で、プライベートでは昭和歌謡を歌うのが好きだそうです。ギターを弾ける友人がいるので、将来はその友人を連れて流しにでもなろうかなと笑ってました。)