2000年5月28日



 藤の花がきれいに藤棚をかざり、まもなくやってくる梅雨の時期には雨のしずくをいっぱいに含んだ紫陽花が咲き、いたる所で花々を感じるシーズンになりました。本日の友達の輪は社会保険労務士の山口修利さんからご紹介いただいた、牛村病院院長のお母様でいらっしゃる秋間富美子さんにお話を伺ってまいりました。

牛村病院
秋間富美子さん
院長 秀一さん
本紙取材 高木 康夫

【高木】こんにちは。山口さんから仕事上のお付き合いをいただいている方と伺いました。本日は富美子さんと院長先生のお二人からお話を伺えるそうで恐縮いたします。よろしくお願いいたします。さっそくですが、山口さんから幸手で一番古い病院だと伺いましたが。

【秀一(敬称略)】まず、秋間家のルーツについて私が知っている範囲でお話させていただきます。家系図によれば秋間家は足利、長尾顕長の家臣、秋間刑部少輔を始祖とし、その長男、弾正の弟、正左衛門が武州田宮庄幸手宿牛村に居住したとあります。正左衛門は慶長の頃から名主役を勤めたと記録に残されております。その長男の市郎左衛門が当家の初代で、私が十三代目にあたります。牛村病院の基となる医業に進んだのは六代目の魯斎からです。魯斎の右足に悪性腫瘍が出来て大変難儀をして、江戸で長崎出身の医師に治してもらったようです。それをきっかけに自分も医学の道を歩んだと聞いております。以来、秋間家はこの地方で一種の医師養成機関のような役割も果たしてきたようです。私の父、禎祐も医師として秋間家を継ぐわけでしたが、戦争に奪われてしまいました。私が母のお腹にいた時のことでしたから、父と私はお互い顔を見ることはできませんでした。

【高木】富美子さんに伺いますが、ご主人はどちらに出征されたのですか?

悲惨な戦争
  赤十字の旗にも直撃弾 

【富美子(敬称略)】主人が二十八才、私が二十二才に結婚したのですが、間もなく召集をうけ三度目の召集の時は今の院長が五ヶ月目のフィリピンの戦局が厳しくなっていた時でした。無事フィリピンへは着いたものの、赤十字の旗のもと医療にあたっていた病院が、爆破され負傷をうけました。そして「転進」、要するに「敗退」であった山の中で帰らぬ人になりました。月の光に照らされた認識票の札のみが光る白骨をのり越えのり越え夜の暗さの中を転進していく時の様子は、後日生還した方の手記を拝見して知りまして胸の凍りつく思いでした。何の報せもないまま、帰還する日を待って義父は、毎日門前に出、駅の方を眺め、帰るはずのない人を待っていたわけです。訃報が届いたのは藤の花が咲く丁度今頃の季節でした。単線の桜並木の下を行くのどかな電車にゆられ、遺骨を迎えに行った時の思いはいまだに鮮明です。そして、埋葬のため開いた骨壷の空だったこと。改めて戦争というものへの怒りと悲しみを深くしました。戦後、農地売収という大きな政治変動の衝撃は義父の命をも奪いました。

【高木】病院はどうなったのですか?

医療技術と
  資本の融合

【富美子】 農地改革、相続税、そして財産税と相ついで降りかかる問題処理中、キャサリン台風の被害を受け、柱だけ残されすべて流れてしまった広々とした荒れ果てた屋敷あとに、唯茫然としてばかりいるわけにはまいりませんでした。丁度敗戦のため台北帝大医学部の教授をしておりました叔父の一家が、引き上げる憂き目に逢って、私共を頼って台湾から戻り、一緒に住むことになって居りました。叔父も生活の方針が立たないで居りましたので私が、資本と医療技術との二人三脚の共同経営を提案し、協力を得、今日の基礎をつくることが出来ました。それが現在の牛村病院です。

【高木】亡きご主人の意思を継がれたのですね。

息子に後を
  亡き夫の声に支えられ

【富美子】 その時の環境は四面楚歌で、心配した実家から、帰ってこいと言われましたが、家の再興とまだ見ぬ子どもに、主人がどの様にか心を残したことだろうと思うと、何とかして再興しなければという思いで一杯でした。今になって思えば、心なくも殺されてしまった人へのせい一杯の心中だてだったのかもしれません。その思いが私を強くしたのだと存じます。幼い頃の息子は大工さんに、とかエンジニアになるのだとか申しておりましたが、黙って聞いているうち、いつのまにか医学の道に進んでくれました。

【高木】院長先生に伺いますが、どちらからいつ頃戻られたのですか?また、近代的な病院と古い建物が並んでいますが?

新旧一体となった
  病院設計

【秀一】私は日本医大を卒業後、東大泌尿器科医局に十一年間勤務して、昭和五十七年に牛村病院院長として戻りました。私が医師となり父の意思を受け継ぐまでには紆余曲折の苦労があった様です。現在の病院を建て替えることについては明治元年に建てられた古い棟を記念として保存したいことと重ねて、いわゆる病院臭を感じさせない様な建築にと心をつかいました。

【高木】すごい歴史ですね。それでは、お友達をご紹介下さい。


【富美子】この年齢になって参りますと友人が少なくなってまいりますね。鷲宮町で温泉を掘り当てた白石昌之さんをご紹介させていただきます。白石さんは幸手市内のロータリークラブでもご活躍されています。

【高木】ありがとうございました。富美子さん、院長先生には益々地域医療にご活躍下さい。

【秋間富美子さんは大正五年生まれの八十四才だそうですが、お話を伺っておりますとまったく年を感じさせない若さあふれる方でした。五十年にもなる病院経営は、現在でも院長先生にとっては心強い元締めだそうで、若さの秘訣は忙しさに追われていることだそうです。それにしても、院長先生も昭和二十年生まれと伺って、お二人の若さには重ねて驚かされました。】

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