2000年7月23日



 夏休みに入り初めての日曜日、子供たちにとっても大人にとってもサマーバケーションのスタートです。本日の友達の輪は久喜市長田中暄二さんからご紹介いただいた、久喜市人権擁護委員の榎本恭子さんにお話を伺ってまいりました。

久喜市人権擁護委員
榎本 恭子さん
本紙取材 高木 康夫

【高木】こんにちは。人権擁護委員は何をなさるのですか?

【榎本(敬称略)】ひとことで言うなら久喜市民から人権に関するご相談を受けております。障害者や高齢者、子供などの社会的に弱い立場の人たちや、外国人や同和に関すること、また、女性に関することなど差別や人権侵害について相談を受けます。久喜には六人の人権擁護委員がおりますが、八月からは女性に関する人権相談を開設し重点的に取り組むことになりました。また、平成十一年六月に男女共同参画社会基本法が成立し女性のための行動計画が具体化しています。久喜市でも平成十三年四月からの第三次女性計画が進んでおり、女性政策懇話会の会長も務めておりますので、女性の私が紹介されたのでしょう?

【高木】ずいぶんお忙しいようですが?ご家族の理解が大切ですね。

尊敬できる義母に
  教えられた生き方

【榎本】夫の理解が大きいですね。それと、榎本家の家風とでもいうのでしょうか、個人を尊重してくれるのです。私は岡山県からこの久喜の榎本家に嫁いできたのですが、義母は古き良家の女性とでも表現したらよいのでしょうか、儒教精神を持った人でした。いわゆる男尊女卑、男性を活かすために女性は存在するといった考え方で、家の主である夫を立てて女性は父のため、母のため、子供のため、家のために生きるという考え方でした。この地に頼れる人がいなかったということもありますが、同居して数年間義母はいろいろな事を教えてくれました。生きるための方策、女性として活き活き生きるということを実際の生活の中で教えてくれたのです。義父は久喜町長、初代久喜市長を務めており来客も多い家でしたから私は義母から言われたことを守って、家の中の仕事だけをしておりました。義母は尊敬できる人で不思議なくらいなんでも素直に受け入れることができました。その義母が同居して十年ほど経った時、「あなたは今まで人のために生きてきたのだから、これからはあなた自身のために生きなさい。あなたたちだけで生活しなさい」と私を親子だけの生活にもどしてくれました。義母は濱梨花枝というペンネームを持つ著名な歌人でもあり、古い家風の中にあっても自分を生かす場を持っていましたから、このようなことを言ってくれたのでしょう。私にとっての地域社会への関わりはここからだったのです。

【高木】なるほど。社会デビューですね?

社会への自立は
  自分で決めること

【榎本】いきなり自分のために生きると思っても、何もわからない訳ですから本当に戸惑いました。今までの私は何かお誘いがあった場合でも、行ってもいいかどうか伺ってから決めていたのです。これからは自分で決めることが出来るのです。自分で決めるということはいわゆる自立なんです。まさに、私自身の社会への自立が始まりました。おかしな話ですが、一年間は本当に些細なことまで躊躇しながら自分で決めていました。(笑い)そして、下の子が小学校六年の時、初めての役割としてPTA会長を務めさせていただきました。次にどうしても自分自身にもボランティア活動ができないものかと思い、本を読むことが好きでしたので視力に障害をもっている人たちに本を読んであげる朗読のボランティアを始めました。宇野千代さんの「生きていく私」という本を最初に手掛けたのですが、本のタイトルや作者、目次やページ、はてはカセットテープがAからB面に移る時はどう伝えるのだろうかと、暗中模索で取り掛かりました。家庭を守っていたころ、義母の言葉に「女は降りかかってくる火の粉だけを振り払っていても、外に出ている人以上に力を貯えているものなのよ」と教えられたことがありましたが、積極的な自分は、その頃力を貯えていたのかも知れません。そして、社協などに相談に行き、朗読講習会を開催し十日間の講習を受けた人たちで会を発足しました。十五年経った現在も会長を務めさせていただいておりますが、副会長をはじめとする皆さまに本当に助けていただいております。その後、人権擁護委員、保護司などを務めるようになりました。

【高木】保護司ですか?聞きなれない名前ですが?

すべての人に活き活きと
  生きる権利がある

【榎本】罪を犯した人々を更生へ導くお手伝いをしています。保護観察の処分を受けた人たちと月に2回程度の面接を通して彼らの立ち直りを助け、再び社会の枠組に戻れるよう助言をしています。心を開いて正直に自分のことを話してくれるようになるには、それなりの工夫が必要で、最も必要なことは、人は誰でもどのような人でも対等な人間として尊重されなければならないこと、生きている証を求めているものだという感覚を自分自身に持つことではないでしょうか。刑務所に入所している対象者を訪問したことがありました。その方に「あなたも十分に愉快に生きる権利を持っているのですよ。社会生活の中で罪を償いながらも自分らしく生き生きと生きてください。」と、話したことがあります。彼の目からあふれる涙は、人間としての輝きを取り戻したようでした。これからも私は、人権擁護委員や保護司、あるいはボランテイアとして悩みを持つ方々の傍らにいて、犯罪のない社会、差別のない社会が訪れるよう、生涯をかけて取り組んでいきたいと思っています。

【高木】日本を代表するゴルフ場ですね。しかし、簡単に温泉が出るはずもありませんよね?

【高木】貴重なお話ありがとうございます。それではお友達をご紹介ください。

【榎本】久喜市青毛でヘルパーとして日夜がんばっておられる加藤操さんを紹介致します。

【高木】ありがとうございました。今日は人が生きるということの奥深さを聞かせていただいたような気がいたします。お話の中に「義母から自分自身を生かしながら、なお他人をも生かしていく生き方を教わった」という言葉がありました。自分のためとは自分を活かすということで、それには自立しなければいけないのだと理解させていただきました。ますますのご活躍をお祈り致します。

【古風な中にもインターネットやメールも駆使され、外国に住むお嬢さんとはメールで写真も添付されるそうです。なんでも積極的に挑戦される素敵な方でした。】

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