新緑の季節も到来し、学生さんや新社会人などフレッシュな人たちが輝く今日この頃です。本日の友達の輪には小学校教師の城戸京子さんからご紹介いただきました小原流生花講師でいらっしゃる山崎光富さんにご登場願います。
小原流生花講師
山崎 光富さん
本紙取材 高木 康夫
【高木】こんにちは。城戸さんのお嬢さんにお花の指導をされているそうですね。
【山崎(敬称略)】とてもすばらしいお嬢さんですよ。お仕事の関係で出席できない時などに教材のお花を城戸さんが取りに来られることがあります。もしよろしかったら一緒に生けていかれたらと声をかけまして、参加していただいた時もあります。城戸さんもすばらしい方でこの間もお嬢さんと海外旅行に行かれたようです。理想の親子ですね。そして、このような企画にお声掛けいただき、本当に光栄です。
【山崎】かれこれ四十五年になります。お花をはじめたきっかけは祖母の教えとでも言うのでしょうか。祖母が残した思い出の言葉に、一つは「女は一生おしゃれ」でいなければならないと言うこと。二つは「女はもてなしの心を忘れてはいけない」と言うことでした。祖母は気配りのある素敵な人でしたから、その生き方に惹かれていたのでしょうね。自分にも適しているものを見つけたくて、お花、お茶、タイプ、洋裁など休みが無いほどお稽古事に励みました。しかし、戦後に父の事業が失敗し生活が苦しく、習い事が多いことは贅沢に感じました。両親にも反対されましたが、「もてなしの心」の中にお花とお茶があると思い自分で費用を捻出し、隠れて通ったものです。その結果、最後まで残ったのがお花だったのです。
【高木】四十五年続けてこられたのはすごいですね。魅力があるのでしょうね。
【山崎】限られた水盤の中で活ける写景のすばらしさに心をひかれたのです。そして、何千とある流派の中で選んだのは小原流でした。いけばな小原流とは明治中期に革命的変革をもたらした小原雲心が盛花の研究をはじめたのが始まりです。それとお花が好きで教えることもはじめられたからでしょうね。いけばなを教えはじめるにあたって一番はじめに当時五才だった息子に「お花教えてもいい?」と相談し家族の協力を得ました。息子も主人も「いいよ」と言ってくれたので勇気をもって指導者の道を選択しました。研究会にも参加しておりました。いけばなの作品に点数がつけられるのです。「ただいま」と帰ってくると留守番をしていた当時小学一年生の息子が「何点だった?」と聞いてくるのです。「今日は良かったよ」と答えると「どうして百点とれないの?僕はとれるのに」と、まるで親子で同じ勉強をしているようで、はからずも子どもの教育になっていたのでしょうか?
【高木】中央公民館が出来た時から教えられているようですね。
【山崎】幸手で初めて公民館が(中央公民館)出来たのは昭和四十八年でした。その時のことが今でも走馬灯のように思い出されます。当時、公民館のまわりは田畑で道路には外灯も無く帰りの時間にはパトロールをしてもらった時もありました。和室からは沈んでいく夕日がとても美しく見えました。こんな素晴らしい所でお花を教えることが出来、少しでも多くの人にお花を通して潤いと安らぎある生活をしていただきたいと思ったものです。また、受講生の皆様は素晴らしく思いやりがある方ばかりで、特にリーダーがしっかりして道具の扱いや整理がすばらしかったです。いまだに揉め事が無く、いたわり合い、楽しい、そして熱心なクラブとなっております。私はお花を教えるだけですが、逆にすばらしいお弟子さんに囲まれていろんな事を教えてもらっていると感じます。本当に教えることは教わることなんだなとしみじみ思います。
【高木】人と人のコミュニケーションのすばらしさですね。