2001年12月16日



 一年は早いものですね。クリスマスイブまで一週間となり、友達の輪も本年最後の方となりました。本日の友達の輪には俳誌「草」の会を主宰されている鴨田廣さんにご紹介いただきました農業を営む宮田耕作さんにご登場いただきます。宮田さんは以前歯科医のご子息がこのコーナーに登場されており、親子二代にわたる対談となります。

宮田耕作さん農業・文化財調査員
宮田 耕作さん
本誌取材 高木 康夫

【高木】こんにちは。鴨田さんからご紹介いただきましたが、国民学校時代からの友達ということですが、ずいぶん古いお付き合いですね。

【宮田(敬称略)】そうですね。国民学校時代からのお付き合いです。バスケット部でも一緒に活動しましたし、現在は書道で一緒に楽しんでおります。

【高木】書では不思議な体験をされたそうですが?

魂を書に込めた
 分守家安の掛け軸

【宮田】満州の総務長官を務められた遠藤柳作さんという幸手出身の方がおられました。書の達人で、父は遠藤さんが満州に出征されるとき形見にと、当家の家訓である「分守家安」という書に魂を込め書いていただきました。身分相応に暮らせば、家は安泰だよという意味ですが、父は掛け軸に装丁し飾っておりました。その父が病に伏せていた時、突然、掛け軸から書が剥がれ落ちたのです。それから数分後、父は他界したのですが、書に魂は込められると実感しました。以来、書には深い関心を持ちました。

【高木】不思議なことですね。人生にも大きな出会いがあったそうですね。

河野十全氏との
      出会い

【宮田】昭和十七年頃でしたが、影響を受けた方と出会いました。河野義さんという人で、一般には倫理分野の河野十全という名で知られた方です。河野さんは赤坂のアメリカ大使館あたりに住んでいたようですが、松石に売りに出されていた農地と家屋敷をそっくり買って、幸手に疎開したのです。そして、農業を教えて欲しいと地元の人たちと交流を持ちました。話題が豊富な人で、父も頻繁に話を聞きにお邪魔しており、小学生だった私も父に連れられ何度となく遊びに行きました。また、近所の人を集めて、週に一回「お話し会」と称して日常生活の中での礼儀や正しい作法を教えてくれました。これが河野さんの教える「倫理」だったのですが、その後も「気」の研究や日常生活での発明など幅広く活躍された方です。

【高木】どんなお付き合いをされたのですか?

宮田耕作さん

日本初ソニー製の
   テープレコーダー

【宮田】亡くなるまで五十年間お付き合いいただきましたが、何事にも無駄がない方でした。先見性もあり公害や環境問題も昭和三〇年ごろから訴えておりましたし、「温灸カイロ」を開発した人です。日本、ドイツ、イタリアにも特許を持っており、終戦後には現在の風呂釜の原型となった循環式のものを開発しました。日常生活の中からたくさんのアイデアを活かし、事業で資産を築きましたが気風のいい方でもあり、戦時中には陸軍に飛行機を一機寄付したことでも有名です。昭和三十年頃でしたが、「何が欲しい」と聞かれ、当時誰も持っていなかった高価なテープレコーダーを頂いたことがあります。後にこのテープレコーダーでこの地方の「ささら獅子舞い」の笛の音を録音し、現在の獅子舞いの笛が継承できたのです。父が他界した時には、お返しはいいから「形見が欲しい」と言われて父の半纏を形見に送りました。河野さんが亡くなったときは香典を送ったのですが、そのお返しに「月間・人間」という生前執筆されていた本を全二五巻送ってきました。「書ならば末代まで生かせる」という遺言を近親者がかなえてくれたのです。そのくらい無駄がない方でした。

【高木】凄い方がいらしたのですね。

意外と知らない
    地元の話

【宮田】他にも凄い人物がいましたよ。上千塚出身の白石広造さんという方です。この人は渋沢栄一のような人物で、江戸時代弘化元年に横浜で英語と航海学を習い幸手から仙台に移って兄弟で海運業を興したようです。東北を中心に電力会社、銀行、鉄道、金華山漁業など財界で活躍しました。明治維新には勝海舟と対で話が出来た人と記録されております。らっこ船といってらっこやオットセイを捕獲し、大豆かすやラングーン米などを運んでいたようです。事業は子孫に継承され仙台に白石商会という会社が現存します。この白石さんの実家の墓が幸手にあったのですが、無縁仏になるところで末代の方が訪ねてこられ、はじめて幸手出身の方の活躍を知ることが出来たのです。現在、市の文化財の調査員もやっておりますが、二ヶ月に一回の割で調査をしております。専門は民族分野ですが、とても、歴史の勉強になります。

【高木】農業は長いようですね。白目米も作っていたようですね。

白目米発祥の地
 天皇陛下に二度献上

【宮田】新宿中村屋のカレーに用いられて好評だったといわれる白目米ですが、原点は当地区のものです。白目米は千塚と円藤内、そして古利根が産地として、当家では大正から昭和十五年まで生産しておりました。写真にも残されておりますが行幸地区より献上米として二度天皇陛下に献上しました。昭和六十年頃には新宿中村屋のおばあちゃんがわざわざ訪ねて来られ、お話をさせていただきました。種というのは生命力の高いもので、ビンに入れて管理すれば永久に保存できます。当家に現存する白目米の種は大正時代に取ったものです。種といえば、外国から野菜が輸入されておりますが、国産といわれる野菜や穀物の種も外国産が多くなっているのです。もち米とうるち米をかけ合わせた「さめてもおいしく、腹持ちのよい」弁当用のお米もできており、これからの農業は更に難しくなってくるのでしょう。しかし、自給自足をする上でも、農業は国の宝と考え、お勤めしながらも農業が出来るような政策も必要と思います。

【高木】それでは、お友達をご紹介下さい。

【宮田】二級先輩ですが古くからの友人で中川崎にお住まいの出井宏さんをご紹介致します。

【高木】
ありがとうございました。これからもご夫婦でおいしい作物づくりにご尽力下さい。

(宮田さんは四人兄弟末っ子の長男だそうで、代々の農業を継承されたそうです。しかし、父親から農業はいつか見切りの時代が来ると言われ、お子さんには好きな道を選択させ、長男、次男それぞれ歯科医として活躍されております。教育熱心な方で、教育の基礎は家庭でのしつけにあって、特に目上の人への礼儀と子どもの教育は環境を作ってあげることとお話下さいました。次回友達の輪は平成十四年一月六日となります。)

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