2002年1月6日



 新年明けましておめでとうございます。昨年は友達の輪をご愛読いただきまことにありがとうございます。本年も本号より連載させていただきますのでご愛読のほどよろしくお願い致します。さて、友達の輪に新春トップバッターとしてご登場頂きますのは、昨年暮れに文化財調査員の宮田耕作さんよりご紹介いただきました出井宏さんです。出井さんは出井歯科医院の事務長として、また幸手市社会教育委員長や文化財保護審議員などを務められている方です。

出井宏さん出井歯科医院事務長
幸手市社会教育委員長
出井 宏さん
本誌取材 高木 康夫

【高木】新年明けましておめでとうございます。平成十四年のトップとしてよろしくお願い致します。宮田さんとは古くからの友人だそうですね。

【出井(敬称略)】新年最初と言うのは大変光栄です。宮田さんは昔から知っていましたが、宮田さんが西中学校の第三代PTA会長で私は第六代会長として、PTAのつながりをもって更に親しくさせていただいた方です。

【高木】教育という分野でずっと活躍されているそうですね。

音楽が苦手
  ピアノが弾けない

【出井】私の父が校長だったこともあり、幼い頃から「教員になれ」と先生への道を奨められました。粕壁中学(現在の春日部高校)に入り埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)に入学して教員への道を歩み始めました。しかし、全学科指導出来る当時の教師になるには芸術科目も履修する必要があり、美術や書道は良かったのですが、なんとしても音楽が苦手で、特にピアノがうまく弾けなくて悩んでしまいました。同期にはピアノを上手に弾きこなす者もいて、自分でもこれはダメだと思い、父親に方向転換させてほしいと嘆願したのです。理解もあって翌年再受験で法政大学経済学部に合格し、昭和二十八年に縁あって大宮の定時制高校の教員になりました。

【高木】定時制高校の先生ですか。何かエピソードなど?

夫婦で時間のすれ違い
  友人からの誘いで転職を

【出井】久喜駅から一時間に一本しかない汽車に乗って毎日通ったのですが、授業が終わるのが夜九時過ぎで、帰る汽車は十時半の電車しか乗れず、毎日自宅に着くと十一時半を過ぎていました。その後、結婚したのですが家内も仕事を持っていましたので、夫婦の生活時間がバラバラで毎日すれ違いになってしまうのです。その頃、友人が北辰テストで有名な北辰図書という会社を興し、私に一緒にやらないかと声を掛けて来たのです。そこで、友人の誘いで九年間勤めた高校を辞めて、北進図書に移ったのです。昭和三十七年頃でしたが、当時の指導方法には偏差値という概念はなく、北辰テストではこの偏差値を取り入れ、中学校を中心に説明会を行ないました。偏差値教育がここから始まったのですが、当時私も多くの中学校から説明に来いと声を掛けられ、授業が終わった後の夕方から毎日のように中学校に通い遅くまで説明をして回りました。

【高木】私も北辰テストは中学校の時受けましたよ。現在、偏差値教育はなくなりましたね?

出井宏さん

偏差値教育が過熱
 疑問を感じて転職

【出井】そうですね。各県で同じようなテストが行なわれ、偏差値がすべてのように過熱してしまったのです。北辰自体も面白いように業績が伸びていきました。しかし、栗橋にT校長という親しい先生がいたのですが、偏差値を使った指導方法に疑問を投じておりました。文部省もこの問題を重視して、北辰テストなどは授業中に行なわないように指導したのです。ですから、日曜日や祝日を利用して行なわれるようになりました。それでも、偏差値が表す尺度は進路選択には捕らえやすかったのでしょう。その後も伸びていきました。私もT校長先生と同じように徐々に疑問視しはじめ、直接子どもたちに指導をしたいという思いも強くなり、退職し進学教室を杉戸に開校しました。

【高木】先生に戻ったわけですね。

子どもたちに夢を
 将来の希望を与えたい

【出井】塾を大きくしたようなものでしたが、小学校高学年と中学生を教えていました。講師も野田市に理科大が出来たので、そこから助手の先生が十二、三名来てくれ幸手にも開校することが出来ました。私は国語と社会を担当しておりました。当時を思い出すと文句ばっかり言っていた子どもたちが一番印象に残っているのです。時々教え子が遊びに来てくれますが。大学の一年生になったばかりの教え子がいたのですが、この子は中学では成績も良くバレー部の主将でしたが大学受験では思ったところに入れずに悩みがあったのでしょう。私のところに来て「何になったらいいのだろう」と相談に来たのです。私の大先輩のご子息当時が日航の機長をやっており、その話を聞いていましたので、すかさず、「パイロットっていいぞ、四十キロ圏なら専属の運転手付だし」と話したのです。彼はその後通っていた大学を辞め、翌年、大分の航空大学校に入学し、現在全日空の副機長として活躍しております。彼が全日空のパイロットになったことを聞いて、あの時の相談が夢の始まりだったと思うと、もっと多くの子ども達にも希望を持って欲しいと感じるのです。最近、「将来何になりたいか?」との問いに答えられない子ども達が多くなっている現実はどうも成績一辺倒になっている風潮を感じます。夢があれば努力しますし、かなわなくても挫折感が違います。努力が次のステップに活きてくるのです。

【高木】社会教育委員長もされているようですね。


【出井】西公民館が開館したときに初代館長に任命され七年間勤めた関係で、社会教育に深く関わるようになりました。公民館は地域の人たちが利用するコミュニティですから、多くの人に利用されるように事業計画や講座づくりに苦労をしました。また、西公民館にはゲートボール場がありましたので、幸手市ゲートボール連盟の事務局長を任されております。

【高木】それでは、お友達をご紹介下さい。

【出井】私の塾での教え子の一人ですが、島田信浩君を紹介致します。島田君は幸手市の地域安全推進委員会で一緒になるのですが、家業である鍵屋さんを継いで防犯という分野で活躍されております。昔から面倒見が良くて義理人情に厚い人間です。

【高木】
ありがとうございました。これからも社会教育において未来を背負う青少年の健全育成にご活躍下さい。

(出井さんは社会教育委員長や文化財保護審議員など幸手市の教育関係に大きく関わっているほか、お隣関宿にある千葉県立関宿城博物館の協議委員も務められております。来年から始まる総合的学習が取りこまれる子ども達の完全週休二日制にも、地域教育力の復活が必須条件であり地域の情報を最大限に活かして欲しいと熱く語ってくれました。現在はご子息が院長を務められる出井歯科医院事務長をこなしながら、積極的に社会教育に関わられる方でした。)

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