2002年5月12日



 ゴールデンウィークも終わり、権現堂では紫陽花が咲き始め、梅雨も間近の季節となりました。本日の友達の輪には幸手市連合婦人会会長の片岡アツ子さんよりご紹介頂きました長浜久三郎さんにご登場いただきます。長浜さんは権現堂に程近い内国府間にて長浜タイヤ工業鰍フ創業者で、吟詠朝翠流朝翠会本部宗範として詩吟の世界でご活躍されている方です。

長浜久三郎さん長浜タイヤ工業
会長 長浜久三郎さん
本誌取材 高木 康夫

【高木】こんにちは。片岡さんの詩吟の先生と伺ってまいりました。本格的な詩吟というのはあまり聞く機会がありません。今日は詩吟のお話を伺えればと思います。詩吟をはじめられたきっかけは何ですか?

【長浜(敬称略)】旧制中学の時でしたが恩師に詩吟が好きな漢文の先生がいました。ある日、教室で私たちに「歌の好きな人は誰だ?」と何名かに歌を歌わせたのです。私もその中の一人だったのですが、当時は唱歌ぐらいしか知りませんでしたから「あ〜たまを雲のう〜えに出し」と富士山を歌いました。その恩師が私の歌を聞いて「詩吟をやってみないか」と声をかけてくれたのが詩吟との出会いです。詩吟は日本独特な歌で、現在は吟詠と呼ばれます。民謡のようなお国訛りがなく、詩そのものは標準語のアクセントに基づく表現で歌われます。先生が漢文を理解させるために詩吟を薦めたのかもしれませんが、詩の中身が解らないと歌えないものです。詩吟の詩は無限にあって、歴史や地理が織り込まれているものが多く存在します。また、形式は大きく分けると二通りとなります。ひとつは「絶句」と言って起承転結の四行で詠まれている歌や、「律詩」と呼ばれ八行で詠まれている歌などがあります。もちろん歌ですから音階や歌い方も教則本で表示しています。

【高木】なるほど、朝翠流に師事を受けられたのはいつからですか?

書店で買い求めた
    一冊の本から

【長浜】昭和四十九年九月十日にならいち本屋さんに封筒を買いに行った時の事でした。ふと目の前の本棚を見ましたら定本詩吟集という本がありました。手に取り一枚二枚と読ませていただきましたら、二頁のはじめに素晴らしい文があるではありませんか。この文に大きな感動を覚え、早速この本を求めて帰ったのです。そして、この本の著者である朝翠流宗家佐々木孝吾先生のところへ、失礼とは思いながらも電話をしてしまいました。先生が偶然にも電話に出られましたので、「私は埼玉幸手で詩吟をやっております長浜と申します。先生の詩吟集を拝見させていただき、是非先生のご指導を頂けたならば」とお願いしたのです。先生は世田谷の下高井戸にいらっしゃるのですが、「毎週金曜日の午後七時から九時まで通ってこられるなら来なさい。」と突然のお願いにも気持ち良く応えて下さいました。それで、三日後には入門させていただいたのです。この時の練習の吟題は名槍日本号でした。それから五年半経った昭和五十五年一月でしたが、先生より「永い年月よくぞ通い続けましたね。今年からは埼玉方面で朝翠流を広めなさい。」と朝翠流朝翠会本部宗範長浜天鵬を頂き、現在の朝翠流天鵬会を通じて吟詠朝翠流発展に務めさせていただいております。

【高木】朝翠流天鵬会は何名ぐらいいらっしゃるのですか?大会などにも入賞されているそうですね。

東京大会で
   優勝の経験も

【長浜】約五十名ほどの会員がおります。詩吟と言うものは若い人はあまり興味を持っていただけないようで、会員の年齢層も五十才〜七十才が大半を占めております。詩の内容を理解しないと面白くありませんので、酸いも甘いも知り得た人たちが多くなってしまうのでしょうか。会としては一年に一回は発表会を開催いたします。先月終わったばかりですが、毎年会員の発表の場として楽しみのひとつになっております。キングレコード並びにクラウンレコードなどの各社が吟詠大会を主催しているのですが、東京大会で優勝したり、全国大会で上位に入賞した事が何度かあります。吟詠朝翠流発展に少しでも貢献できたのではと感じます。また、現在幸手市では中央公民館や連合婦人会、また白岡町、杉戸町でも詩吟講座を受け持っており、地域での活動の場を頂いております。

【高木】そうですか、お仕事のお話も伺いたいのですが?

出世払で
  タイヤ屋の復興を

【長浜】終戦を迎えた昭和二十四年のころ、仕事を求めいろいろな仕事に就きました。その中で都内の立石に光モーター鰍ニいう会社があり、そこの知人から「手伝ってくれないか」と声を掛けて頂き、そのタイヤ部に勤めたのが始まりです。その後、資格を取ろうと仕事をしながら工学院大学に通ったのですが、ある日、栗橋に廃業したタイヤ屋があることを知り、紹介状をもらってその社長と会う機会を頂きました。私は「お金も無く長浜久三郎さん裸一貫だけど、やらせて頂けるなら」と閉めたタイヤ屋の復興に掛ける思いをぶつけたのです。社長は東大を出た方で私の気性を気に入ってくださり、「それじゃ、出世払で譲りましょう」と二十四才の脱サラが実ったのです。大学も中退して従業員二人を抱え、無我夢中で仕事をしました。当時はタイヤの質も悪かったのですが、それ以上に舗装などされていない道路状況で、タイヤがパンクしたと連絡が入ると、自転車で取りに行って、修理したタイヤをまた、持っていくような仕事でした。昭和三十一年には現在の場所に移り、昭和三十七年に会社組織として設立し、五年前に息子と社長交代を行ない、現在に至っております。日曜祝日はお休みですが、八時〜六時までタイヤのことならなんでもお任せ下さい。

【高木】それでは、お友達をご紹介下さい。

【長浜】朝翠流天鵬吟詠会で会計理事をお願いしております宮杉光枝さんをご紹介します。宮杉さんはそろばん塾の先生でもあり、多くの子供たちに指導されております。

【高木】ありがとうございました。これからもご活躍されますようご祈念申し上げます。


(現在、七十六才になられるそうですが、詩吟をされているせいか、とてもお元気で、五年前にご子息に社長を譲った今でも、現役のつなぎのユニフォームがとてもお似合いな方でした。聖徳太子の諺にある「和を以て貴しと為す」が大好きな言葉だそうで、すべてに実践されています。タイヤ販売では日本ダンロップ関東協友会の会長職などを三十年も務め、業界の発展にご活躍されているようです。また、詩吟の世界ではとても有名な方で、審査員として関東圏内をボランティアで動き回っているそうで、神奈川まで行くこともあるそうです。)

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