梅雨を感じさせない日が続きますが梅雨明けまであと数週間、季節は夏真っ盛りですね。本日の友達の輪には完熟苺を生産されている白石貞雄さんからご紹介いただいた、保険代理店を経営される斎木和美さんに登場願います。
保険代理店
斎木 和美さん
本紙取材 木 康夫
【木】こんにちは。白石さんから奥様同士が小学校からの幼なじみでご家族ぐるみのお付き合いとご紹介いただきました。よろしくお願いいたします。
【斎木(敬称略)】はじめまして。私の妻と白石さんとは五十年来のお付き合いになりますね。おかげで家族ぐるみでお付き合いさせていただいております。こちらこそよろしくお願いいたします。
【木】保険業をされておりますが、保険のお仕事はずっとされているのですか?
郵便局で
保険の営業三十年
【斎木】私は以前、郵便局に勤めていました。幸手郵便局を振り出しに県内、県外をあわせて全部で十局に配属されました。最初の幸手郵便局時代は配達業務が中心でしたが、二十一才で結婚したとき、「結婚したら生活が大変だろうから保険業務も学びなさい」と越谷郵便局に転勤して保険の営業職になったのです。以来、郵便局で仕事一筋に五十四才で退職するまで三十六年間勤めました。振りかえれば三十六年間の郵便局生活で管理職四年をのぞく三十二年間のうち三十年間が保険の仕事でした。夫婦でよく話すのですが、保険の営業で自宅を建てて子ども達も育てられたと思っています。
【木】保険のプロですね。どうして独立されたのですか?
【斎木】県外の群馬県前橋の郵便局に転勤をしたときがありました。週末に幸手の自宅に帰れる距離でしたし、家族のことを考えると環境を変えるまでもなく単身で赴任しようと思ったのです。もともと自宅では何もやらない仕事一筋人間でしたから、独りで生活する事の大変さを体験しました。群馬県は温泉がたくさんあることもありまして、ある日、仕事の帰りに温泉に入って帰ったのですが、そこから自宅まで車で10分の距離なのに、なぜか方向がわからなくなってしまい三時間もさまよってしまったのです。翌日、身体というより頭の変化を感じて病院に行ったのですが検査の結果、脳梗塞が起きていたのです。早い発見で命に係わる大事にまで至りませんでしたが、環境が変わったことや仕事上のストレスなどが原因のようでした。それから、精神的リハビリを行ない自宅療養を三ヶ月して職場復帰しました。しかし、管理職という立場でしたから復帰しても辛かったですね。なんとか、二年の任期を全うして自宅に近い郵便局に移動したのですが、負担が重いので希望を出して、管理職から一般職に戻してもらいなんとか二年間頑張りましたが、身体を第一と考え退職しました。
【木】そうでしたか。それでご自分で保険代理店を開業されたのですね?
【斎木】とにかく、落ち着いたら自分に可能な職業を選択しようと思い、ハローワークに通いました。ところが年齢が五十才を過ぎると職業選択は厳しい現実なんですね。求人が限られてしまうのです。いろいろ考えた末に今までやってきた保険の仕事なら独立してもやれるのではと思ったのです。そこで、アリコジャパンに自ら直接電話して代理店になれないか相談したのです。幸いにも代理店が認められ、いよいよがんばるぞといった時に突然背中からお尻にかけて激痛が走ったのです。職業柄、お客様にご説明するのに座ることが多いのですが痛みで座ることが出来ない状態なのです。診察の結果、坐骨神経痛になっていました。仕方なくスタートしたばかりの保険代理店は休業状態にして、治療実績が有名とされる浦和や銀座や地元で整体治療を受けました。一年半かかりましたが痛みもやわらぎ、仕事への復帰準備に入ったのです。
【木】大変でしたね。それで、いよいよ代理店業ですね。
【斎木】ところが、これからと思った矢先、市が主催している人間ドッグで、今度は初期の胃がんが見つかったのです。ガンは小さかったのですが食道に近い部分にあったため、胃を全部摘出することになってしまいました。思いもよらないことでしたね。ガンの告知はドキッとしましたが、早期は完治するケースが多いと言うこともあり、摘出手術を受けました。消化器系の手術は術後しばらく食べることが出来ないので辛かったですね。普段は気づきませんでしたが、入院中、テレビを観ているとCMや番組の多くは食べ物ばかりなんです。(笑)おかげさまで、術後二年が経過しようとしています。食事も胃がないので腸で吸収していますから間食を含め、少量を一日五食いただいています。仕事人間でしたから食事の時間も早かったのですが、今は食事に時間をかけて食後一時間は休憩をするというスローライフを実践しています。)
【木】立て続けに病気を経験されたのですね。でも、運が強いですね。
【斎木】そうですね。実は生まれたときがカスリン台風の年だったのですが、疫痢が流行して零才児の私もかかってしまったのです。当時はペニシリンが高価な薬で病院でも現金でないと打ってくれなかったようでした。父親はもうだめだと思って火葬用の薪まで用意していたようですが、三回目の投与で症状が良くなったと聞きました。ですから、三度ほど死にかけた人生なのですが、そういう意味では運が強いのかなと思っています。
【木】凄い経験ですね。夢などは?
【斎木】仕事一筋に生きてきましたから、子ども達に父親らしいことをしてあげられませんでした。今、娘の子どもがとても可愛いので父親としてやれなかった分を孫たちにしてあげられたらと思っています。それと、病気になった時に妻には苦労もかけましたから、夫婦で趣味であるウォーキングで自然や緑を見たりしながら、家族仲良く健康的に過ごしたいですね。
【木】では、お友達をご紹介下さい。
【斎木】バーバーマサオの鈴木侑子さんを紹介いたします。
【木】ありがとうございました。これからも健康に留意されご自身の経験の中から生きた保険代理店業を頑張って下さい。
(斎木さんはご自身が脳梗塞をされて以来、あとから保険が入れないそうで「保険代理店なのに自分の保険は充分でないのですよ。縁談と保険は勧められているうちが花」とおっしゃっていました。なんにもない事が一番良いのですが、万が一の保険も大事ですね)