ひな祭りももうすぐ、春の訪れもすぐそこですね。本日の友達の輪には前商工会会長の奈良次男さんよりご紹介いただきました森正寛さんに登場いただきます。森さんは工業プラントなどを手がけるマルモ産業鰍フ代表取締役会長であり、幸手市商工会副会長職をはじめ多くの公職を務めていらっしゃいます。
マルモ産業
代表取締役会長 森 正寛さん
本紙取材 木 康夫
【木】こんにちは。奈良さんから幸手商工会工業部会を代表する方と紹介されてまいりました。
【森(敬称略)】こんにちは。あまりこういう取材は得意ではないのですよ。奈良さんからの紹介では断るわけにもいきませんし、よろしくお願いいたします。
【木】ご出身はどちらですか?
【森】私は静岡県三島ざいの函南町の出身で、実家は富士箱根国立公園指定地内に山林を所有する農家でした。私は七代目の次男として生まれました。
【木】ご先祖が有名な方でまちおこしで地酒名にもなっているそうですね。
【森】先祖には大場の久八と称された森久次郎がおりました。久次郎は文化十一年(1814年)に伊豆国函南村間宮に生まれ、記録によれば、天保十年(1839年)の頃には上州系三大親分の一人として勢力圏は伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模にわたり、乾分の数、三千六百人、有名貸元四十九人を容する東海随一の大親分となっていたそうです。安政の大地震には大前田栄五郎と協力して義損金数百金を募って窮民を救ったそうです。また、嘉永六年(1853年)に江川代官が品川沖にお台場を築造する工事に苦難していたとき、率先して配下の石工人数千人を集めて難工事を完成させるなどして、台場の親分と仰がれる人物だったそうです。現在、静岡の富士錦酒造から「大場の久八」という純米吟醸酒が製造されています。
【木】現在のお仕事と家業とではずいぶん離れているようですが?
【森】小さい時からものを作ることが好きで、農家で大学には行かせてもらえませんし、就職難の時代でもあり就職率の高かった沼津工業高校に入学しました。就職先が七ヶ所も決まってしまうほど人気の工業高校で、私は当時の国鉄や川崎製鉄などの大企業や何社か選択肢があったのですが、一番小さい企業を選びました。それは、大企業に入ると現場になり、設計などをやらせてもらえないと思ったのです。「カヤウチ金庫」という金庫やロッカーなどを製造している三百名規模の会社に入りました。六ヶ月は現場でしたが、設計に移り図面を書くようになりました。
【木】金庫の設計をしていたのですか?
【森】金庫やロッカーなどの設計やそれらの特許開発をしていました。ラーメン一杯が二十円の時代で、初任給は五千五百円、また、特許を取得すると会社の専務から金一封として五千円が出ました。四月の終わり頃、夜間大学の二次募集があり、収入もありましたので、さらに勉強したいと考え入学しました。仕事のほうも朝鮮動乱が激しい頃で米軍から銃器格納庫や船内に置くロッカーや洗面器具などを受注していました。当事は米軍基地に通訳と共に入札説明会に行ったものです。仕事と大学の両立は順調でしたが、ある日、大学の試験中に会社の上司の命令で、米軍に商品のサンプルを提示するためのパーツ集めに走ってくれと指示されました。オートバイでパーツ集めに奔走しましたが、運悪く浅草で路面電車のレールに滑って転倒してしまい救急車で搬送されてしまったのです。
【木】怪我は?
上司の人間性と
おふくろの手紙
【森】上司に電話したら、身体のことは一切心配せず「オートバイはどうした?」と言うのです。高額な乗り物だったことは確かですが。保険に入っていないから自分で直せとまで言うのです。悔しかったですね。専務からは辞めないように説得されましたが、人間よりオートバイが大事な上司にはついていけないと辞めることにしました。事故では田舎にいる母が心配し、鉛筆書きの手紙と共に、父に内緒で工面してくれたお金を送ってくれました。トイレでその手紙に涙が止まりませんでした。母のためにも今に見ていろと誓ったものです。その後、知り合いの工場を使わせていただき自分でオートバイを直して会社に返しました。
【木】転職されたのですか?
学生時代に培った
創業期の積極性
【森】私は給料を貰うと大半貯金していましたし、寮費の安い学生寮に住むことも出来ましたのですぐに就職しなくてもよかったのです。それで、自転車とリヤカーを購入して、大学が終わってから知り合いの下請けの工場を借りて電気の配電盤やプールボックスという物を作っていました。材料は現金で仕入れ、納品先は代金を早く確実にもらえる会社が必須条件でした。それで、信用ある企業を電話帳で探しました。信用度の目安は電話帳の企業名が太文字表示の会社に絞り、営業の電話を掛けては仕事を増やしていきました。受注が増えてくれば反比例して大学にあまり行けませんでしたね。その後、当時の国鉄のコンテナの試作品を作ったりしながら貯金を増やし川口に工場を作ったのです。その当事、幸手や杉戸からも従業員が来ており、幸手に工場を移そうと思ったのもそんな縁からです。現在、幸手市千塚に本社と工場を置き、昭和四十五年庄和町に作った春日部工場があります。庄和町は今年春日部市に合併しましたので文字通り春日部工場になりましたが、建設当時から春日部工場と銘じたところにツキがあるのかなと思っています。(笑)
【木】趣味などは?
【森】スポーツは現在ゴルフだけです。昔はオール三十代で回っていたこともありましたが、今は五十を切るのが大変ですね。音楽を聴くのも楽器を弾くのも好きですね。学生の頃、音楽をやっていましたのでギターやピアノも弾きますし楽器は何でもやれますね。
【木】多趣味ですね。では、お友達をご紹介ください。
【森】(株)さしま通商の佐野猛さんを紹介します。
【木】本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をご祈念いたします。
(森さんは1985年に国産第一号の核シェルターを作ったり、幸手市・市制施行の際にはまちおこしの一環で飾りを施した花車を出したり、アイデアあふれる「ものづくりのプロ」です。また、とても豪快な方で学生時代からたくさんの経験を活かしてこられた人生をお話し下さいました)