さくら前線も北上し、関東には例年より早い開花情報が伝えられ春はもうそこです。本日の友達の輪にはマルモ産業(株)会長の森正寛さんよりご紹介いただきました佐野猛さんに登場いただきます。佐野さんは運送・倉庫業の鰍ウしま通商の代表取締役社長です。
(株)さしま通商
代表取締役社長 佐野 猛さん
本紙取材 木 康夫
【木】こんにちは。森さんから紹介されてまいりました。
【佐野(敬称略)】森さんからの紹介ですか。困りましたね。お話しするようなこともないし。(笑)まあ、私の体験でもお話しましょう。一言で言えば屈辱をばねに波乱万丈な人生です。
【木】どのような人生ですか?
【佐野】私は新潟の農家の次男として生まれました。戦時中は少年航空兵にあこがれましたが、終戦になり貧しい家庭でしたから学校卒業後は「口減らし」のために文京区にある八百屋に入り、朝早くから夜遅くまで御用聞きをしながら働きました。しかし、このような生活をしていては駄目だと思い、特殊印刷という分野で業績も良かった文京区にある印刷会社に勤務先を移したのです。そこでは、酒のレッテルや醤油のレッテルなどを印刷していました。仕事が終わると趣味の野球をやっていましたが、ある日、練習中にボールが見えにくくなったのです。食生活が偏っていたのでしょうね。今では考えられませんが栄養失調で目を悪くしていたのです。それで、印刷会社を辞めて田舎に帰ることになったのです。
【木】上京して身体を壊されて帰郷ですか?
【佐野】田舎に帰ったおかげで目も回復し、結婚して二人の息子に恵まれました。それで、今度は家族そろって上京したのです。王子の駅前にアパートを借りて現在の日本製紙に勤めました。ところが、当時の王子は工業地帯で子どもたちが小児喘息になってしまったのです。医者に「郊外に出たら治るかも知れない」と言われ、埼玉県の蕨に越すことにしました。ところが長男の小学校入学手続きをした日、暮らす予定の住居が隣家のもらい火により全焼してしまったのです。途方にくれましたね。仕方がないので、親戚が幸手市役所の近くに土地を持っていたので、そこに住まいを建てて住むことにしたのです。
【木】大変なことが続きますね。それで、幸手に?
【佐野】東十条まで毎日二時間半通いました。紙を用いた製品が増えてきて、日本製紙も牛乳パックやコーラのカートン入れなどを作る新会社を草加に設立する事になったのです。私は、『新会社なら年功序列や学閥もなくスタートが一緒であるし通勤も近くなる』と考え、真っ先に転職を希望したのです。日本製紙での評価もあり希望がとおり、新会社では製品資材の管理を任されました。仕事も業務も順調でしたが何事にも落とし穴があるものです。信頼していた部下が、私がいると自分の出世が無いと考えて私の足を引っ張ったのです。告発です。私が取引先から接待を受けているというのです。接待は上司である役員のお供でした。民間同士の取引では懇親を兼ねた接待は日常的でしたが、表ざたになれば経営陣から非難されることも当然で、私は役員である上司のことは口にしないまま、退職か更迭の選択になり退職したのです。
【木】苦渋の選択ですね。
【佐野】働かなければなりませんから、草加に出来たばかりの松下倉庫に「仕事は選びませんから」と面接したのです。選ばないという姿勢に面接官は驚いたようです。松下倉庫は松下電工の配送センターでしたから関東一円の営業所に照明器具を配送するのです。今までの業務経験が役に立ち、さらに物流システムを学び、気がついたら責任者になっていました。でも、友人が「大きなものに挑戦したらどうだ、独立してみないか」と勧められ、昭和四十六年に銀行から融資を受け運送業を興したのです。当時はトラック五台からでないと免許がおりませんでした。苦労もありましたが車が財産ではなくドライバーが財産と考え、プロのドライバーより素人のドライバーを採用して育て、女性ドライバーの採用は東武沿線で最初でした。お客様から「さしまさんのドライバーは人がいいね。うちの仕事も手伝ってくれないか」とドライバーが自然に営業を成してくれました。
【木】さしま通商という名称の由来はあるのですか?
恨む前に
自分が反省
【佐野】新潟の出身ですから象徴でもある佐渡島の「さ」と後ろの「しま」をとって中身は自分で作るという思いを込めて「さしま」にしました。通商はこれからの時代は物流と倉庫だという意味を込めたものです。仕事を通じ人生に感じたことは「自分で威張ってはいけない、おごってはいけない」ということです。人間は外観で判断すると自分が損しますし、自分が恥をかきます。人を踏み台にして伸びた人間はいつか引きずり降ろされます。人を大事にした人は人から持ち上げてもらえるということです。そして、恨む前に自分が反省するということも大切です。私は今でも部下に裏切られたことで自らの反省があり今があると感じます。
【木】人生は深いですね。これからの夢などは?
【佐野】夢ですか?そうですね、早く後継者にバトンを渡して趣味の写真撮影を極めたいですね。創業時のある日のこと、家族で食事をしていた時に仕事のことで夫婦喧嘩になってしまったのです。たぶん何度となくそういうことがあったのでしょう。息子が「子どもの前で喧嘩はしないでくれ」と言ったのです。私は仕事のことで愚痴や喧嘩などを子どもの前でしては、子どもたちがそんな仕事を継いでくれるはずもないと感じたのです。その反省があって、現在二人の息子が私と会社を支えてくれています。
【木】バトンの受け渡しも順調ですね。では、お友達をご紹介下さい。
【佐野】ひばりヶ丘工業団地内の三清工業(株)社長である成瀬進吉さんをご紹介します。
【木】ありがとうございました。益々のご活躍をご祈念いたします。(佐野さんは中越地震では幸手市と栗橋町に働きかけ救援物資を集め新潟に運んだそうです。仕事で公道を使わせていただいているのだからトラックで貢献出来るのならば協力は惜しまないとボランティア精神も高く、また、幸手新潟県人会の会長でもあり新会員を募集中です)