1997年12月28日



 今年も残すところあと3日。なにかとせわしい年の瀬を送られている方も多いことと思います。さて、今年のトリでご登場いただく方は、幸手市文連副会長杉田郷子さんより短歌を通じてご紹介いただきました靴下の製造会社を経営されている古賀冨美江さんです。古賀さんの短歌に、実生より育ち、40年近くご自宅を守っている楠を詠んだものがありますので巻頭にご紹介します。「心せまく生きし我かな冬晴れの空おほらかに楠大樹あり」

栗田靴下工業(株)
代表取締役 古賀 冨美江さん
本紙取材 高木 康夫

【高木】杉田さんとは短歌の会でご一緒と伺いましたが。

【古賀(敬称略)】読書会にずっと入って居りました折、ご一緒させていただいた石塚病院の奥様から短歌の会に入りませんかと声を掛けていただいたのがきっかけです。短歌の講習をしていただけると思っていましたら、次回からいきなり短歌を作るということで驚きました。短歌を通じて杉田さんとお付き合いさせていただき、15年になります。杉田さんは常に前向きの心を持ち、人を啓発する力のある方でこのような方にめぐり合えた事を心からよろこんでいます。杉田さんとは習字のほうでも一緒なんですよ。短歌を市民文化祭などに出品する際、初めは他の人に筆で書いていただいたのですが、どうせなら、自分で書こうと染谷先生に教えていただいています。本当は仕事を引退してから、何かをしようと考えていたのですが、少しでも余力のあるうちにと始めました。

【高木】靴下の製造をされているとか。

足袋の時代に靴下を
   見込み生産と労働争議

【古賀】足袋が中心で、靴下など履く人がいない大正4年に父が創業したもので、当時は靴下の創生期でした。戦前の父は業界全体を引っ張りながら、靴下業界では日本一にもなりました。スキー用の靴下なども当社が手掛けたのですが、順調だった仕事も、昭和32、3年頃から暖冬の影響が続き、見込み生産してあったスキー用の靴下などが、思うように出ませんでした。銀行の支援を得られず、その上、社内で労働争議が起き、会社は倒産致しました。当時、社員は100名以上おり、私は30才でしたが、当時、幸手の本社とは別に浅草橋に工場と営業所があり、その営業所を任されていました。時代がさせたのかも知れませんが、労働争議は大変なもので社外から油を注ぐ人達もおりました。創業者の意地もあったのでしょう、ワンマンだった父は仕事に嫌気が差し、倒産の道を選択したのです。兄も父の仕事をしていましたが、労働争議に巻き込まれた時、大変疲れたようで仕事を継承しようとはしませんでした。そこで、会社の閉鎖の為に、私が幸手に呼び戻され労働組合や中小労連と深夜にも及ぶ話し合いを何度も何度も行いながら、後処理をしたのです。若いうちから、大変な経験をしてしまいました。

「もう一度、再開して」
   暖かい声に支えられ

【高木】大変なご苦労をされたのですね。

【古賀】私は両親を小岩に購入した小さな家へ移し、幸手を離れたのです。そして、「腐っても鯛」と言われながら「栗田さんの靴下なら安心だから、製造を続けて」という暖かい声をいただき、3台の機械を小岩に購入し、現在わが社の立原専務と共に生産を再開したのです。納品には大きな荷物を自転車や電車で運んだものです。若い女性が大きな荷物を持って電車に乗っていたりするものですから、見かねて荷物運びを手伝ってくれる方もいました。(笑い)しばらくしているうちに、一部の従業員の間から会社再開の声が上がり、その人達の暖かい声に励まされ、半年をかけて破産を取り消す手続きをしたのです。この間約1年間ありましたが、私にとってはとても大変な一年でした。

【高木】経営者として先頭に立ったのですね。

【古賀】なんとか幸手に戻り、住居を改築し残された機械を持ちこみ、15名位の従業員と共に再開しましたが、それでも常に採算があうか、原価計算しながらの操業でした。父は大きく事業を行っていましたので、私の経営について、口論もしょっちゅうでした。そんな父も再建後3年目に亡くなるまでいろいろな事を教えてくれました。

親孝行ができたかな
   父は私の尊敬する人

【高木】お父さんの栗田亀造氏は以前町長をされていたとか?

【古賀】父は「地元にお金を落したい」という経営方針と、「人に頼まれたことはやらなければいけない」という信念を持っていました。事業では積極的に地元の人を採用し、また、父が若い頃、ゆとりがなく学校へ充分に行かせてもらえなかった思いから教育にはとても熱心で、当時、幸手では商業高校を誘致しており、高校建設地の農家の代替地がなくて困っている時、当時の小林町長に代替地として私有地の提供をしたそうです。その後、人からの薦めで幸手町としては初の公選で町長を選ぶ時に立候補し、町長を一期務めさせていただきました。任期中には大被害を受けたカスリーン台風が襲来しており、天皇陛下が被災地を訪ねられ、幸手にも来られた時、父が応対したそうです。自分の話や自慢話などはほとんどしなかった父でしたので、亡くなってから勲章や書状などがたくさん出てきて、凄い人だと思いました。私にとって父はとても尊敬できる人でした。ですから、亡くなる前に主治医から「会社は大丈夫ですか」と聞かれ「大丈夫なら、安心して逝かせてあげられる」と言われた時、親孝行ができたのかなと思いました。

【高木】仕事一本で来られたのですね。

企業にも年齢と共に
   終末を迎えさせたい

【古賀】母が健在なうちは何とか頑張ってきましたが、その母も亡くなり、後継者もおりませんので、古希を迎える頃には、仕事人間から引退したいと思っています。靴下産業も年々生産コストの低いアジアからの製品に押され、日本は生産国から消費国になってしまいました。いずれは、この会社に終末を迎えさせたいと思っています。従業員の皆さんも私と共に永く勤めてくれた方ばかりで一緒に老後を楽しみましょうと話しているのですよ。(笑い)

【高木】波瀾万丈な人生を伺った感があります。ではお友達をご紹介下さい。

【古賀】3人兄弟で、兄と60才で亡くなった弟がいるのですが、その弟の同級生で浦和高校の教頭を勤め、以前幸手高校の校長先生だった高木秀雄さんを紹介いたします。弟と高木さんはとても親しい仲で、弟の通夜、告別式には付きっ切りで見送ってくれた方です。

【高木】ありがとうございます。それでは、高木さんには年が変わっての発行になりますが、次号、対談させていただきます。

(古賀さんで作られている靴下は全国で販売されているそうです。現在ストックス[STOCKS]というずり落ちない靴下がヒットしているようです。丸井や大手の百貨店からDマート、ローソンなどでも販売しているそうです。)

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