早いもので、3月になり春の芽吹きが各地で聞かれる季節になりました。今回の友達の輪にはボランテイアでご活躍の白藤芳子さんよりご紹介いただいた、幸手市にお住まいで境町で境クリニックという医院を開業されている中島勝廣さんにお話を伺って参りました。
境クリニック
院長 中島 勝廣さん
本紙取材 高木 康夫
【高木】こんにちは。白藤さんから中島かっちゃんは自慢の教え子ということでご紹介いただきました。
【中島(敬称略)】宮崎先生(白藤さんの旧姓)は私が小学校4年生の時、1年間でしたが担任の先生だった方です。怒られても「伸びなさいよ」と心の中に伝えてくれるとてもすばらしい先生で、私もいつかは学校の先生になりたいと思い始めた頃です。
【高木】幼い頃の夢は学校の先生だったのですか?
【中島】3人兄弟の長男として墨田区向島に生れたのですが、我が家はとても貧しく、私だけ幼い時に幸手の祖父母に預けられたのです。祖父母は権現堂川小学校で「こづかいさん」と呼ばれる管理人のような仕事をしており、住まいも学校の中にありました。小学校は私にとっては自宅のようなもので、幼かったので校内にうんちをして廻ったという話も後で聞かされました。(笑い)環境が学校そのものでしたのと、宮崎先生をはじめとする多くの先生方に刺激され、夢は学校の先生に膨らんだものと思います。
【高木】そうでしたか。
【中島】中学校3年の時ですが、貧しかったので高校へは進学できないと思っていたのですが、願書提出3日前になって親戚の人が東京から両親を呼び、祖父母を交えて家族会議を開き、公立であればという条件で受験出来ることになったのです。感謝でいっぱいですが、学費は祖父母が出してくれ、春日部高校で高校生活を送らせて頂きました。その後、働きながら勉強して学校の先生になろうと夢を追いつづけました。そこで、当時一番初任給が高かった川崎製鉄に就職したのです。川崎製鉄は大卒しか採用しないのですが、2年間だけ高卒を採用したのです。
【高木】現在の医師からどんどん遠ざかっていきますね。
【中島】高卒だったからか、川崎製鉄では訓練と称して1年間勉強をさせられました。高校よりも厳しく、宿題も山のように出される毎日でした。2年目には希望していた千葉へ配属が決まり、レミントンユニバックという第一世代コンピューターのオペレーターをしました。しかし、祖父母にとっては、製鉄会社に寮生活というだけで「たこ部屋」のイメージを抱いていたらしく、心配のあまり祖父にボケが出て自転車で走行中にけがをしてしまったのです。祖父母は2人での生活でしたから通院などの介護をする人がいなく、私も先生への夢を実現するには仕事が忙しくて勉強が出来ないジレンマを感じてました。これを機に会社を辞めて戻る事にしたのです。幸手では祖父を連れて秋谷病院へ通院しましたが、院長先生のお姉さんが私の小学校時代の担任の先生でもあり、院長先生と話をされ私にアルバイトの事務職で働かないかと声をかけてくれたのです。私にとっては、先生を目指すのに良かったものですから、働きながら勉強をしようとお世話になったのです。
【高木】やっと、病院が出てきましたね。
【中島】勤め始めてしばらくして院長先生から、医者になってみないかと声を掛けられたのです。学校の先生以外は考えていませんし、医者になることも、その難しさも知らない状態でした。でも、院長先生から「学校の先生も、医者も呼び方は同じ先生だし、人間を扱うのは同じだよ。やりがいがあるからやってみなさい」と言われ、決心したのです。
【高木】決心しても医師になることは大変なことですよね。
【中島】大学を受験する為、夜仕事をし1年間予備校に通いました。5年間も現役から離れてましたし、勉強する材料がなかったものですから、NHKラジオ講座を毎日聞き、薄いテキストだけで勉強しました。これしかないという危機感が集中力を高めてくれたのかなと思っています。おかげで日本医大に合格し、6年間勉強した後、国家試験を受け医師になることが出来ました。その後、日本医大第一外科に医師として勤務しながら、週1回のペースで秋谷病院に勤務し、やがて、診療科目の充実を図る為に13年半お世話になりました。そして、平成6年6月1日に境町旭町に境クリニックを開業しました。入院設備の無い外来医院ですが、お金が無かったもので当初は看板もありませんでした。でも、口コミで遠くからも患者さんが来てくれ医師としての信頼を得たようでとてもうれしく思っています。
【高木】秋谷先生の原石を見つけて磨く感性も素晴らしいですが、中島先生の決心もすごいですね。これからの夢などは?
【中島】吉田松陰が維新転換の人材を多く輩出したことは有名ですが、同じようにまわりの多くの人たちが私を触発してくれました。私もそんな触発をする人間になりたいと思っています。その実現に東さくら通りにさくら友好会館を開設しました。多くの方々に利用頂けるコミュニテースペースとして提供しています。また、イギリスでコーヒーハウスから文化が生れたように、幸手に自由なサロンスペースを作り自分が経験してきたような場の提供をしたいと思っています。医者の立場からは救急医療に不可欠な救命救護技術の普及を実践していきたいと考えています。すでに、昨年幸手消防署などの協力により「救命救急の集い」を開催していただきました。幸手市全体に広まればいいなと思っています。
【高木】すばらしいですね。それでは、お友達をご紹介下さい。
【中島】幸手市北にお住まいの宇賀神時子さんをご紹介させていただきます。宇賀神さんは、私を触発してくれた方の一人で、幼い頃の私を知っており権現堂川小での校内うんち事件以来のお付き合いです。今でも何かあるとよく相談にのっていただいています。
【高木】ありがとうございました。これからも、地域に密着した医療にご活躍下さい。
(とても穏やかな先生で、医師への道のりはとてもドラマチックなお話でした。あきらめない事と自分を信じることの勇気を感じた1日でした。)