1999年 5月9日



ゴールデンウィークも過ぎ、初夏の香りに包まれた季節になりました。本日の友達の輪には、幸手市家庭児童相談室相談員の本澤洋子さんからご紹介いただいた書家である染谷四良さんに登場頂きます。

書家  染谷四良さん
本紙取材 高木 康夫

【高木】本澤さんから、尊敬する先生と伺ってまいりました。また、昭和二十七年のこと、本澤さんのお母さんがガンの手術をして、術後の治療で築地の癌センターに行く時、満員電車で偶然染谷先生と乗り合わせ、染谷先生が「皆さん、ここにいる奥さんは病気で東京の病院に行くのです。どなたか、席を代わって下さいませんか」と大声でおっしゃり、お母さんが椅子に座る事ができたお話を聞かせていただきました。高校生だった本澤さんは染谷先生の勇気ある行動に、大きな影響を受けられたようですよ。

【染谷(敬称略)】本澤さんのお父さんは養蚕の指導をする養蚕教師で、当時、家内の父親が幸手小学校の校長をしており、親同士が家族付き合いをしておりました。ちょうど、戦争から戻ってきて、教師になったころのエピソードですね。

【高木】戦争に行かれたのですか?

友の多くを失い
  収容所で厳しい生活
 

【染谷】戦争は収容所を含めて、のべ五年間関わりました。水戸で教官をし、昭和十九年外地勤務となり、門司を出港し南シナ海に出て、セルベス島、ボルネオ、タラカン島などの警備にあたりました。一緒に行った仲間の多くは戦火に倒れましたが、私の場合はいつも移動部隊に加わり、生きて終戦を迎えることが出来ました。でも、終戦後の一年間は収容所に送られ、重労働の厳しい生活でした。まず、食べるものが無いのです。茶碗に入ったおかゆが出るのですが、ひらがなの、「のの字」を書くようにすくうだけで無くなってしまうほど粗末なもので「のの字メシ」などと呼ばれました。ですから、海に入ってエビを追い込んで食べたり、ホンダワラという海草や浮き草を煮たりして食べました。また、警備にはオランダの兵隊がいて、皮肉なことにこのオランダ兵は北海道で捕虜になった経験があり、仇をとったように厳しく管理されました。湿地帯に道を造る作業を強いられましたが、ろくに食べていませんので力が出ないのです。いつ倒れてもおかしくない状態でした。振り返れば、本当に戦争は悲惨な行為です。

【高木】ずいぶん苦労されたのですね。収容所から帰ってきてどうされたのですか?

黒塗りの教科書
     日本の書を守れ

【染谷】父親も教員だったこともありその影響もあったのでしょう、適格審査を受け先生になりました。しかし、終戦直後は戦争につながるような不適切な言葉や、不適当とされる個所を黒く塗りつぶした教科書を用いたり、教育課程の時間割もPEN MAN SHIPと称してペン字やローマ字を優先し、書道においては「やることが望ましい」とされました。国語の中の習字として年間二十時間だけ、しかもやることが望ましいわけですから、都内で調査をしたらほとんどやっておらず、このままでは日本の書道が消滅してしまうと危惧した学大初代学長や教育界書道関係者らが終戦後十年間にわたり書の大切さを訴え続け、必須科目として教育課程に定着し現在の書道教育が守られた訳です。

【高木】なるほど、検定もされていたとか?

変化に対応していく
       日本の漢字

【染谷】そうですね、小学校で用いる書写の教科書の検定をしていました。ご存知のとおり教科書は四年毎に検定を受けるのですが、指導者である先生方が表現する意味合いに違いが生じる問題がありました。たとえば書くときに「しっかりおさえてはねる」と教えた場合に、「しっかりおさえる」とはどういう事なのか捉え方が色々ありますし、新出漢字の扱いなどでは「業」という漢字は下のハの部分が漢字の「木」のようでも、カタカナの「ホ」のようでも良いのですが、先生によっては教科書の印刷文字と同じでないと誤りとしてしまうことがありました。そのため、許容文字といって「紙」や「糸」、「赤」などのように簡略してもよい表示をしました。また、接筆といって「田」のように外の「口」に中の「十」がすべて接していますが、昔、右側は接していませんでした。子供の頃は「田んぼには水が入らないと困るからね」などと教わったものですが。(笑い)漢字も時代に対応して変わりましたね。

【高木】漢字や書道とは随分長いお付き合いですね。

中一で県展最優秀賞
  恩師からの書号で六十年

【染谷】父親が書道好きで、見ているうちに幼い頃から興味を持ちました。中学一年の時には先生に薦められて出した県展でいきなり最優秀賞をいただきました。当時は学校の先生方も筆を用いていましたので、一緒になって書道雑誌に作品を送ったりもしました。受験組で四年生からは書道の時間がなかったのですが、卒業の頃には特級をいただき、先生方よりも上位級でした。(笑い)当時の書道の恩師である石川峰吉(鶴園・かくえん)先生が卒業を記念して鶴峰(かくほう)という書号を与えてくれました。ですから鶴峰はもう六十年になりますね。おかげで、書道を通じた国際文化交流としてドイツやフランスなどにも行く機会がありました。また、歴代の文部大臣が役員をしている文化交流団体があるのですが、時の文部大臣であった海部俊樹さんらと第十七次全日本教育書道代表団として台湾にも行ってきました。日本の書道は諸外国にも高い評価を受けていますよ。

【高木】素晴らしいことですね。では、お友達をご紹介下さい。

【染谷】幸手駅前で通りで「かさ家」という料亭を古くから開いている高塚ワカさんを紹介します。高塚さんはとても勉強家で私の書道教室に毎週欠かさず参加してくれる方です。

【高木】ありがとうございます。これからも、書の道においてご活躍いただけますよう心よりお祈りいたします。

(幸手市文連では指導部長を務め、自ら主宰するみずほクラブと東雲クラブという書道クラブは十七年にもなるそうです。短冊の倍くらいの幅広の和紙をパタパタと折り綴った「折手本」という書のお手本を、仕事が休みの日曜祝日に書き綴って百冊以上にもなるそうです。いつかこの「折手本」を出版したいと夢を広げるおおらかな方でした。)

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