1999年7月4日



今年は雨の少ない空梅雨が続きますが、あとわずかで本格的な夏に突入ですね。今日の友達の輪には日本民家再生リサイクル協会会員である和田勝利さんよりご紹介いただきました、幸手市北にお住まいの巻島功司さんにお話を伺ってまいりました。巻島さんは和田さんに永い歴史ある建物を現代風に再生依頼された最初の方だそうです。

権現堂堤下
巻島功司さん
本紙取材 高木 康夫

【高木】古民家リサイクルに取り組んでいる和田さんが最初に手掛けたお宅が巻島さんと伺いました。お話ですと巻島さんのお住まいはずいぶん古い歴史があるそうですね?

【巻島(敬称略)】「友達の輪」は以前から読んでおりましたので知っていましたが、私などに声が掛かるとは思ってもいませんでした。とても恐縮しております。和田さんには現在の住まいを改築していただきました。現在の住まいは明治二十一年に建てられた納屋を改築したものです。

【高木】百年以上にもなる建物ですね。

百六年の歴史を
       刻む住まい

【巻島】戦後の農地改革時にやむなく母屋を壊すことになり、同じ敷地内にあった納屋を三〇mほど移動させて住まいにしたそうです。当時は一階が養蚕室で二階だけが住まいだったのですが、私の両親の結婚を機に一階を改築し、その後も家族構成や生活様式の変化にともなって部屋を増築してきました。今回の増改築も二人の子供たちに自室が必要となったため新築しようかどうか考えた末、本家でもあり、お正月やお盆には親戚が集まるものですから、なんとか思い出を残したいと考えたのです。たまたま、親戚のひとりに子供の頃から遊びに来ていた設計士がおりましたので、昔のイメージを残しながら現代風にアレンジ出来ないか相談したのです。

【高木】歴史を感じさせる太い梁や柱ですね。

本当に出来るの?
    骨組みまで解体

【巻島】基本的に三間×六間の百年以上経っている納屋だけを残そうということになり、皮肉にも増改築された部分は価値がないと判断されすべて解体されました。(笑い)また、納屋に置いてある茶箪笥や仏壇といった家具類や調度品類もそのまま残せるように寸法をとった上で設計されました。両親の老後も考慮してバリアフリーを目指し、部屋自体はすべて段差をなくしました。工事は、住まいとして改築された納屋を解体して骨組みだけにするのですが、その姿を見たときは「本当に大丈夫なのだろうか。壊した方が早いのでは。」と思いました。設計士でさえ、ここまで解体したのは初めてだったので不安を感じたようです。(笑い)でも、歴史を綴ったものを残したいという思いで、平成六年十二月に工事着工し、平成七年八月に完成しました。

古きを尋ねる
   きっかけとなる

【高木】新築以上に費用がかかるそうですね。また、解体の際に古いものが出てきたそうですね。

【巻島】費用の面ではそうかも知れませんね。解体の時、骨組みだけになった屋根裏の太い梁に『明治二十一年、吉田半平、大工、當村(地元の)』と書かれており、地元の大工の吉田半平さんが作ってくれたものとわかりました。また、お猪口がいくつか出てきまして、船問屋開店記念の『権現堂、同岸、白石出店』と書かれ高瀬舟の絵が入ったものや、『北葛飾郡長歓送迎会、大正八年十一月十四日』と書かれたものもあり、北葛飾郡長という首長の存在を残すものなど、古いものに興味を感じさせる多くの品が出てまいりました。家を直すことがきっかけとなり、今では自分の先祖に深く興味を持ち始めております。

【高木】何かわかりましたか?

槙島と巻島
   百年後の出会い

【巻島】 天正十七年(一五八九年)に当家初代とされる槙島主水助がこの地で農業をしていたそうで、私は巻島家として十七代目に当たるようです。昔からの言い伝えによると江戸時代にはお伊勢参りが恒例で、分家があるとされている小田原に立ち寄っていたらしいということもわかりました。その小田原の槙島さんを探して二度ほど小田原に行き、市史編纂室で調べたところ、小田原の槙島さんと百年後の出会いをすることが出来ました。そして、顔を見たら父親に似ていましたので、本当に驚きました。小田原の槙島さんも親戚が幸手というところに住んでいると聞かされていたそうでした。お伊勢参りや小田原など、どうも、ルーツは京都の方にあるようで、しかも、武士であったようです。武士の時は槙島の字を用い、農業を営むようになってから巻島になったようです。

【高木】
先祖は武士ですか?

昔は武士?
  その後、農家へと

【巻島】京都の宇治の歴史資料館に行ってきましたが、足利家最後の将軍である足利義明の側近に槙島昭光という人物がいました。この槙島昭光は一五七三年に宇治の槙島城主であり、どこで生まれて、どこで亡くなったかは定かでありませんが、その子供は一色氏であったそうです。また、槙島城跡には小椋池という池があり、京都の武士の別荘地になっていたようです。そして、景色も環境も権現堂に似ており、幸手城主も一色氏であったこともあり、推測ですが槙島昭光が流れて来て、農業に転じる際にこの場所を選んだのではないだろうかと考えたりしています。なにか、ワクワクしてきますね。

【高木】
おもしろそうなお話ですね。調べれば調べる程興味深くなってきますね。時間を作るのが大変でしょうね。

【巻島】趣味みたいなものですね。それと、私の子供は娘ばかりですから、巻島としては私が幕引きなのかなとも、感じてしまいます。ですから、次世代の子供たちに伝えられるようにちょっと調べ物にはまっています。農業の前に何をしていたのか?出来ることなら戦国時代まで調べられたらと思っております。

【高木】なるほど、では、お友達をご紹介下さい。

【巻島】私は現在草加消防署に勤務する公務員ですが、以前は職場の先輩であり、家業を継がれた竹村潔さんを紹介いたします。竹村さんは『婦人服のシルク』を幸手市内で開業されております。

【高木】 どうも、ありがとうございました。これからも、巻島家の歴史を現代風に綴って下さい。

(後世に残すことが自分の役割であり、昔の人が作られた過去帳を現代風に、誰でもわかるようなものにしたいとおっしゃる傍ら、パソコンやデジタルカメラ、写真などが趣味とおっしゃるとても穏やかな方でした。)

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